石飛先生、こんにちは。
石飛先生は
『心臓の中にある光明を、ヤ-ジュニャヴァルキヤは「プルシャ」とも呼び、「ア-トマン」とも呼びました。
心臓の中に「人」の形をしたプルシャがあるのだ、ということもいわれます。いつでも、「人」を離れられないのが、
ヤ-ジュニャヴァルキヤなのか。相対的な考え方から離れられないことになってしまうような気がしてなりません。
ヤ-ジュニャヴァルキヤは、肯定と否定、能動と受動など、いつもこの相対的な判断から離れません』
と書かれていました。
確かにヤ-ジュニャヴァルキヤは自己(ア-トマン)を心臓の中の虚空に横たわっているという言い方をしている箇所があり、
ここは残念なところです。
しかし、私は、仏陀(ゴ-タマ・シッダッタ)が最も影響を受けたのはヤ-ジュニャヴァルキヤだと考えます。
仏陀の教えの骨格はヤ-ジュニャヴァルキヤにあるように思えます。
自己(ア-トマン)を『~に非ず ~に非ず』としたこと。
行為(業)によって輪廻転生すること。
妻を捨てて出家するという生き方。
これらを見ると、青年期のゴ-タマ・シッダッタはヤ-ジュニャヴァルキヤの教えに甚大な影響を受けて出家し
行為や欲望を滅して不生に到達しようとしますがかなわず
ついに、行為や欲望のもっと元に、真の原因たる無明(苦を知らないこと)があることを発見し(四諦十二縁起)
独自のやり方で成道したのではないかと思えるのです。
ですから、仏陀は独自にそれまでにないやり方で無上の悟りを開いたのですから天上天下唯我独尊であることは確かですが
それに至るまでにヤ-ジュニャヴァルキヤの影響は非常に大きいものがあると思っています。
仏陀が言った『私には師はない』ということと
仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けているということとは
別に矛盾しません。
師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
師弟関係とは言いません。
青年期の仏陀が、インドの聖典を読んだこともなく影響を全く受けてないと思う方が現実的ではありません。
『ヴェ-ダの達人』とも呼ばれていますから、かなりインドの聖典には精通していたはずです。
これは、イエス・キリストが旧約聖書に詳しくて、人々が驚いたという記述を思い出させます。
イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように
仏陀もヤ-ジュニャヴァルキヤの教えを飛び越えて、全くそれまで到達したことのないところまで行ったと考えます。
無明=苦を知らないこと という発見はその最たるものでしょう。
> つまり、どんなに最初にヤ-ジュニャヴァルキヤの説の影響を受けようと、それを乗り越えてしまうなら、もはや「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」とは言われないと思うのです。
> 「一切智」とか「一切智者」とか、という言葉は、伊達に言われているのではなく、ブッダの特徴を過不足なく示すことばだと思っています。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けたと言っても、「ネ-ティ、ネ-ティ」の思考を会得した、相対的な立場を超える立場を模索した、というところで影響を受けたのであって、彼に教わらなくても、他の誰かに教わることはできたし、その考えに出会うか出会わないか、という違いでしかない、とすら言えると思います。それを乗り越えたところにいるブッダには気にする必要のないものです。
> むしろ、ヤ-ジュニャヴァルキヤがブッダに教わることができたなら、かれは、即ブッダの弟子になったのではないかと思います。ヤ-ジュニャヴァルキヤほどすぐれた哲人であれば、たちどころにブッダの述べることを吸収したのではないかと思っています。
> そういう意味では、ショ-シャンクさまのおっしゃることもわからないではありません。
> 当時の哲学的な思索が、どれほど進んだものであったか、ということは、わたしも本当に知れば知るほど感心します。もし、ブッダが出ていなければ、いまだにウパニシャッドを超える思想は、現代においても出ていないだろうとさえ思います。
> しかし、ブッダは世に出現しました。
> もう、ほんとに、これがすべてだと思います。
> 世界は、この瞬間から、ブッダの教えの中に存在することになりました。
> 世界で本当に、マジで「一切智者」ということばを発した唯一の人物だからです。
この大筋と言いますか、本質的なことに関しては、全くその通りだと思います。
成道の時には、それまでのすべての教えを超えた境地に至ったと思っていますので全く同意です。
私が、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を強く受けたと思っているのは、
出家の動機からスジャ-タ-が差し出した乳粥を受
け取って飲んだときまでだと思います。
ある音楽評論家が、ベ-ト-ヴェン交響曲3番『英雄』を『この先、ベ-ト-ヴェン』と評したことがありますが
乳粥を飲んだときから、『この先、ゴ-タマ・シッダッタ』なのだろうと思います。
それまでは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを頂点としたヴェ-ダ宗教の影響下だと考えます。
出家の決断に関しても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが妻を捨てて出家したエピソ-ドはかなり強く後押ししたはずです。
2人の仙人に、無所有定、非想非非想定を習ったのも、それを捨てて断食行に入ったのも
それまでの伝統的な考えの影響下でしょう。
> > 仏陀が言った『私には師はない』ということと
> > 仏陀はヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けているということとは
> > 別に矛盾しません。
> >
> > 師弟というのは双方向で、教え教えられの関係です。
> > 本だけを読んでその人から直接教えを受けていないのであれば
> > 師弟関係とは言いません。
>
> ここは、ちょっと。。。
> 「双方向」ってオンライン授業の要綱にあったなと思い出しながら、
> 「師弟関係は教え教えられの関係」ということを言葉どおりとるなら、師は教え、弟子は教えられるという関係が成りたてばよいのですよね。
> 本だけ読んでも、その関係が成りたてば双方向ではないでしょうか。
> いつも本から教えられる、いつも本は先生の役目をはたしてくれる、のであれば、師弟関係は成りたつのではないかと思います。
> わたしは、ブッダには会ったことはありませんが、いつも教えを受けています。
> 「困れば経典」が習い性になっています。ブッダは、すぐれた先生なので、時を隔てていても、もっともわたしが必要とすることを教えてくれるのです。
現代の日本では、それは成り立つと思います。
『仏陀は私の心の師だ』と言って何の違和感もありません。
本で読んだ哲学者を師とするのはよくあることです。
しかし、ミラレパがマルパに弟子入りしたときや、慧可が達磨に弟子入りしたときのことを思うと
特にそれ以前の古代インドにおいて、弟子入りして師弟関係を結ぶというのは少なくとも師がその人を弟子と認めることが必要ではなかったでしょうか。
そういう意味の双方向です。
仏陀そしてその後の仏教であれば、師が弟子に戒を授けるということが必須だったと思います。
ですから、仏陀がヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けていたとしても『私には師はない』ということは矛盾しないと思います。
> > イエス・キリストがそれまでの聖書(旧約聖書)を飛び越えたように
> > 仏陀もヤ-ジュニャヴァルキヤの教えを飛び越えて、全くそれまで到達したことのないところまで行ったと考えます。
>
> ここは、ショ-シャンクさまとわたしは一致していますね。
> おっしゃる通りなので、わたしは、「ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた」とは言わないのです。
>厳しいようですが、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、ブッダに比べるとほんの小さな虫のようなものだ、という表現も当てはまるかと思うほどです。
小さい虫ですか(笑)
> > 無明=苦を知らないこと という発見はその最たるものでしょう。
>
> 「無明=苦を知らないこと」の上がありますね。
> 如来所説経(『サンユッタ・ニカ-ヤ』56.11)の中で
> 「いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智(ヴィドヤ-)が生じ、光明(ア-ロ-カ)が生じた」
> 無明(アヴィドヤ-)を否定して、明智(ヴィドヤ-)が生じ、さらに光明が生じている、という、この一点において、「ヤ-ジュニャヴァルキヤの影響を受けた」という段階は遥か昔に遠のき、到達点からすれば、たまたまヤ-ジュニャヴァルキヤがそこにいたから、ブッダはそう語ったのだ、という物言いになるかと思います。
> 他の人がいれば、他の人の言い方を使ってブッダはその人を教化するだろう、というようなものです。
> 対機説法という観点が出てくるのも、ブッダが一切智を得た、というここに注目するからだと思っています。
>わたしは、ブッダはヤ-ジュニャヴァルキヤに影響を受けた、とは言わないなあというところで、結論としたいと思います。
> わたし自身は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは、沙門ゴ-タマに禅定を授けた二人の先生より、禅定としては下にいると思っていて、
>思想的なことを考えても、それほど高いものではないと思っています。
そうですか。
> 言語で語りうることが、前提になるとするならば、かなり高度な思想とも言えますが、
>しかし、言語で語ることを意識しない段階では、ヤ-ジュニャヴァルキヤ、ウッダ-ラカより上の行者たちもいたのではないかと思っています。
ここは全面的に賛同いたします。
むしろ、本当に無量となった人は、何も説かずに死んでいったと思います。
仏陀が成道したとき、説いても無駄だと考えたように、
説かずに入滅した人は特にインドでは多いような気がします。
そしてそういう人の境地は非常に高いものだと思います。
> 経典によれば、ウッダカ・ラ-マプッタに教わった非想非非想処という段階が当時到達されていた最高のものでした。
禅定という意味では当時で最高だったでしょうし、仏教では今に至るまで非想非非想処が禅定の最高です。(滅尽定は今は置いておくとして)
その最高の禅定ですら仏陀は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てています。
> ヤ-ジュニャヴァルキヤは、そこまでいかず、「ネ-ティ、ネ-ティのア-トマン」の思想を出して、出家の道に入りました。
>ということは、かれとしては、まだその先がある、ということだろうと思います。
>わたしは『ウパニシャッド』の伝えるところまでだとしますと、それほど高い境地ではなかったとみています。
>神秘主義的な梵我一如の境地で終わっているように見えるのです。
> 出家してそれ以上にいったかもしれませんが、そこは文献的には残されていません。
私は、神秘主義的な梵我一如の境地は高い境地だと思います。
仏陀が『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない』と捨てた禅定の境地より下だと断定されるのは
どのような理由からでしょうか。
> 相対主義を乗り越えようとしているようには思うのですが、どこまで到達したかはわかりません。
梵我一如の境地であれば、すでに相対主義は乗り越えているのではないでしょうか。
> ブッダの頃になりますと、六師外道が出てきますよね。
>彼らは、ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えていたか、あるいは、それに飽き足らず異なる道を模索していた人々のような気がします。
>宿命論とか唯物論とか、あまりよく言われない思想が多いですが、また、非常に未熟なように言われることも多いですが、
>実際はかなり高度な思索を重ねた結果のようにも思います。
> 文献的には何も残っていないので、証明する手だてもありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤ・ウッダ-ラカの時代を下って、
>ゴ-タマの出現する頃になりますと、サ-ンキヤ・ヴァイシェ-シカへとつながる思想的な源泉はすでに湧きだしていたのではないかと思っています。
六師外道というのはひとつのキ-ポイントだと思います。
私が注目するのは、六師外道が、いわゆるバラモン教でないことです。
六師とも仏陀と同じ自由思想家です。
なぜ、それを『外道』の代表としたのか、そこに興味があります。
仏陀は『ヴェ-ダの達人』と呼ばれていました。
石飛先生によると、仏陀自身が『私はヴェ-ダの達人だよ』と言ったとのことです。
このことから、仏陀自身は、自身をヴェ-ダの流れにあるものという認識だったのではないかと考えます。
むしろ、自由思想家の方を外道としています。
仏陀が、バラモン教を全否定したというイメ-ジは弟子たちによって作られたものではないかと思うのです。
イエス・キリストが、ファリサイ人やその律法学者ばかりを攻撃したように記述されていてユダヤ教を否定したように思う人がいるように。
これも、どうしてサドカイ派でなくファリサイ派ばかり?と疑問に思っています。
> わたしは、古代において、自分と同じような意味で師弟関係を結んだ人を一人知っています。
> それは、龍樹です。
> かれが誰かの弟子入りをしたという記録は残っていません。
> 突然、経典が出てきて、それを解釈していくのです。師は、あきらかにブッダです。
> 部派の誰かについた記録もなく、大乗の誰かについた記録もない。伝説では、龍宮城で、大龍に教わったことになっていますが、ただ伝説のように言われています。
なるほど。
私は龍樹のことはほとんど知りません。
私には、仏陀の教えを斬新な切り口で解釈した学者のように思えるのですが
禅定なども、実際の師なくして優れていたのでしょうか?
> > 小さい虫ですか(笑)
>
> やあ、すみません。どうも、かれの神秘主義に引っかかっているらしい、と自己判断を下しています。
>かれが神秘主義を超えていれば、ショ-シャンクさまに賛成していたかもしれませんが。。
先生は神秘主義がお嫌いなのですか?
私はむしろ、教えの上澄み部分、エキスのように思えています。
イスラム教の中のス-フィズム、仏教の中の真言密教、新プラトン学派などは惹かれるものを持っています。
神秘主義的要素がないと宗教はただの哲学になってしまって何の力もない気がします。
禅の見性や悟りも直接体験ということで神秘主義でしょうし
法華経も如来秘密神通之力を説いています。
> 直接体験 が 神秘主義 であるということは、
> あなたが決めたことに過ぎない
それでは、あなたの、神秘主義の定義を教えてください。
【神秘主義】
絶対者・神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識できないので、
それらを超えて何らか直接に体験しようとする宗教・哲学上の立場。
インドのヨ-ガ、プロティノスの新プラトン主義、キリスト教と対立したグノ-シス主義、
イスラム教のス-フィズム、エックハルトの中世神秘主義などが顕著な例。
わかりますか?
感覚や知性の働きでは認識できないので
直接に体験しようとする立場のことを神秘主義というのです。
哲学が知性の範囲に留まるのに対し
知性を超えて直接体験する姿勢が神秘主義です。
それを否定するなら、
あなたの、神秘主義の定義を教えてください。
仏教における密教も代表的な神秘主義です。
神秘主義を否定するということは、密教も否定するということですね?
神秘主義とは、感覚や知性の働きを超えて直接体験しようとする立場のことです。
これは宗教と名がつけば、どの宗教宗派でも存在します。
知性や感覚は限界があり、それを超えて直接体験することがなければ、
それはもはや宗教ではなく、ただの頭だけの哲学です。