マニカナが新しくリニューアルされて、旧マニカナは消滅していくかもしれないとのことですので、過去ログの中で自分の投稿の一部を保存のために転載しておきます。
ただ、この投稿は数年前のことで、まだ『仏陀の真意』を書いていないときのものですので、いまとは異なる部分もありますが、探求途中の経緯ということで載せます。
石飛先生、ありがとうございます。
法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。
> じみに羅什の『妙法蓮華経』を読んでいるのですが、最初の三乗方便一乗真実の話は、もろに『スッタニパ-タ』第四章の「八偈品」から来ていますね。
> 『『スッタニパ-タ』と大乗への道』でも書いたのですが、後半、第14経、第15経、第16経が、それぞれ菩薩・独覚(仏)・声聞の道に対応していると読めるので、三乗が説かれています。
声聞・縁覚・菩薩の三乗ですが、私はどうしても、大乗仏教が3つに分類したと考えていましたが
先生は、すでにスッタニパ-タにそのような分類があったと考えられているのですね。
法華経はかなり寛容ですが、他の大乗仏典では、声聞・縁覚の二乗はかなりボロクソに書かれています。
二乗は仏になれないというのが多く、法華経でやっと、「二乗でも仏になれる」とされました。
声聞の本来の意味は、釈尊の肉声を直接聞いた弟子のことですし、
縁覚は師を持たずに悟った人のことです。
ですから、本来の意味からすると、釈尊も縁覚です。
その二乗をなぜあそこまで貶さなければいけなかったのか、
そこに大乗仏教誕生の秘密があるのかもしれません。
さて、先生の言われる、14経、15経、16経ですが、
14経が菩薩、15経が縁覚、16経が声聞、に対応しているということで
もう一度読んでみましたが、よく分かりませんでした。
この中で15経は、本当に釈尊の肉声を聞いているような気持ちになる経典ですね。
多分、すべての仏典の中でも最も古いのは、この15経ではないでしょうか。
この15経には、釈尊の真意を解き明かす鍵がありそうです。
14経は、法華経で言えば、安楽行品の基になったような気がします。
偶然、第14も同じですが。
逆に言えば、影響を受けすぎて、あまり大乗仏典のようでないところが安楽行品にはあるような気がします。
16経に関しては、題も声聞の代表のサ-リプッタですから、声聞の道と言うことでしょうか。
ただ、法華経などでは、声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行というように書かれますが
14,15,16にはその記述がなく、やはり、先生の言われる「対応している」ということがわかりませんでした。
よろしければ教えてください。
> 大乗は、その内容としては、後代勝手に生まれてきている訳ではなくて、確実に原始仏典などに説かれるところで、未検討の内容や関心の高いところ、大きな問題をはらむところが、経典として作られているのだと思います。
> 「如是我聞」であることは、間違いないことです。いかに真剣に仏法を受けとってきたかということが、よくよく分かります。
> 大乗は非仏説だという意見があるのは、受けとる側に問題意識がないため気づけないということだろうと思っています。
法華経の中に、こういう言葉があります。
「外道の論議を説き、自ら経典を作って世間の人を誑惑す」と罵詈し
「塔寺を遠離」せん、と。
このように迫害を受けている様子が書かれています。
それまでの仏教徒からこのように罵詈雑言を投げつけられても新しい経典を作っていったのは
並大抵のモチベ-ションではありません。
私には、どうしても、その熱意の源は、
部派仏教が仏陀の真意を伝えていないという、強烈な不満、憤りがあって
「こんなものは仏陀の真意ではない。仏陀の説いた大法ではない。」と叫んだからだとしか思えないのです。
> > 法華経は読めば読むほど、凄いお経、ありがたいお経というのがわかります。
> > そして、大乗仏典の誕生の謎の解明に大きなヒントを与えてくれるお経なのかもしれません。
> ショ-シャンクさまも、そのようにお感じになりますか。
> わたしも、おっしゃるとおりにすごいお経だなと思うのですが、確かに、その反面、声聞乗などの比丘たちに、
>反発されそうな物言いをしているところが、少し気になります。
>言いたいことは分かるとしても、もう少し配慮してもよかったかなと思わないではありません。個人的な希望ですが。
法華経というのは不思議なお経です。
そして、その真価を知るのにこれほど難しいお経はないように思えます。
多くの人がなぜ法華経を尊重しているかというと、そう言い伝えられているからです。
中でも、天台が言ったから、日蓮が言ったから、道元が言ったから、という理由が大多数を占めているでしょう。
しかし、偉人バイアスや宗祖バイアスを外してみたときに、法華経はどこがそんなに凄いお経なのか、全く分からないはずです。
私も、法華経が経王と呼ばれている理由がずっと分かりませんでした。
最高の真理が説かれているお経と言うことで、誰しもワクワクしながら読むでしょう。
序品では、仏陀の眉間から光が放たれます。文殊菩薩はこれは大法が説かれる瑞だと言います。
そして、方便品では、ついにその大法が説かれます。
『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』
えっ?これだけ?
ってなりますよね。
その仏知見が何かなども全く説かれませんし、ただ一大事因縁のために世に出現したというだけです。
私は哲学的には華厳経のほうがよほど上だとずっと思っていました。
もちろん、宗祖バイアスを持ってすれば、どこかの宗祖が『法華経が最高』と言っているから
何が何でも有り難がろうという人がすこぶる多いのは知っています。
そしてそういう人は不幸だなと思います。
ただの『法華経最高サングラス』をかけて見ているだけですから。
誰かの考えを投影して見ているだけです。
白隠も、若いときに、法華経を読んで、『こんな例え話しか書いてなくて肝心の真理がちっともない』と思って捨てたそうです。
しかし、40過ぎて悟ってから何気に法華経を読んでみると、その意味がありありと分かって号泣したそうです。
これが本当の法華経の読み方だと思います。
先生も、二乗に対する物言いが気になるということで、それはバイアスがかかっていない読み方だと思います。
> > 声聞・縁覚・菩薩の三乗ですが、私はどうしても、大乗仏教が3つに分類したと考えていましたが
> > 先生は、すでにスッタニパ-タにそのような分類があったと考えられているのですね。
> そうです。何か、どこかで読んだ経典の匂いがするような。。と思っていましたら、
>第15経で「わたし」とブッダが語り出しているのを読んで、これが独覚の悟りを示すのではないかと思いました。
この文章に続く、先生の詳しいご説明で、先生が、スッタニパ-タの14,15,16経が三乗思想に対応していると思われている理由が分かりました。
ご説明、ありがとうございました。
私としては三乗に分ける考え方が好きでないので、できれば三乗は方便で、先生の結論たる、二乗にエ-ルを送るという意味での設定に過ぎず
本心は一仏乗だというのがすっきりします。
最近、原始大乗と言う言葉を知りました。
初期大乗の前、菩薩乗という概念を生み出した勢力があったようです。経典はほとんど失われているようですが。
初期大乗である法華経は、そのような菩薩乗と二乗を包み込んで引き上げる一仏乗というものを説いたのかもしれません。
ただ、私としては、三乗思想はなかった方がよかったと思っています。
最初から一仏乗だけでよかったのではないかと思います。
仏陀の真意は一仏乗にあったと思います。
仏陀は四念処を一乗道と言っていますし、在家であってもそれで解脱できると考えていたからです。
三乗思想ができあがったために
声聞は四諦の法を修行、縁覚は十二縁起の法を修行、菩薩は六波羅蜜を修行となっていますから
四諦十二縁起という仏陀の最も重要な筏が、二乗の修行法と言うことになってしまい
誰もかえりみる者がいなくなりました。
大乗仏教は仏陀の真意の復興運動だと思っていますが、同時に、あまりにもそれまでの仏教そのものである部派仏教を
貶めてしまったので、仏陀の筏の四諦十二縁起も捨て去られてしまうことになりました。
> 最初、「序品」で、ブッダが法華経を話出そうとすると、五千人の比丘や在家信者たちが、立ち上がってブッダに礼をして出て行ってしまうシ-ンがありますね。
> あれなども、すでにそうなることが見えているような書き方にも見えます。
> 実際体験もしたかもしれませんが、そうでなくても、日頃の行いからも考えて、こうなるだろうという予測のもとに書かれたようでもあります。わたしには、そんな風にも見えます。
> ですから、迫害されるのも、予測はしているような感じもして来るのです。それでも、法華経を残すのですから、やはり二乗の人たちに一緒にブッダになりましょう、と言いたかったのではないでしょうか。
> 二乗の人にも等しく無上正等覚者の道は説かれているのだ、という思いから著されたのが法華経のような気がします。
法華経の前にも、大乗仏典はできていたと思います。
部派のサンガの中で、ひそかに、大乗仏典を創作していたグル-プはいたと思います。
そのような人たちが部派の人たちからは
『お前たちの言ってることは外道の論議だ』『勝手に経典を作って人を迷わしている』と糾弾されて
サンガを追い出されていったと思います。
その様子が法華経に書かれているのではないでしょうか。
グレゴリ-・ショペンの、ずいぶん後になるまで、大乗教団は存在せず、大乗仏典だけが作られていった、と言う説は
かなり史実に近い気がしています。
ところで、方便品の5000人の退出が気になります。
例えば、500羅漢という言葉は、第一結集の500人の直弟子から来ているのかもしれませんし
方便品の5000人にも何か史実が隠されていそうです。
提婆達多に従った人数なのかもと思ったこともありますが、いまだに分かりません。
> > 『諸仏は、衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせるために世に出現した』
> > えっ?これだけ?
> > ってなりますよね。
このことの重大さに気づいたのは、かなり後になってから、原始仏典を調べはじめてからです。
大乗仏教の国日本で生まれ、大乗仏教の本や環境に囲まれて生活している私たちは
仏様が衆生を救うためにこの世に生まれるということは、まあ、そんなに違和感ないですよね。
しかし、歴史上の仏陀は、人間がこの世に生まれるのは渇愛または無明が原因としました。
ですから、原始仏典の決まり文句は
『生存はすでに尽きた。再び生を受けることはないだろう。』です。
法華経が作られた時点において、『一大事因縁のために世に出現した』という宣言はまさしく驚天動地のことです。
映画の始まりのテ-マソングが異様に長い昔の映画のように、さんざん盛り上げたあとに
『仏は衆生に教えるために生まれた』と当たり前のことだけ言ったと思って『?』でしたが、
原始仏典の流れが分かるようになると、これは時代を画する宣言だったと思います。
ひとつ、先生のお考えをお聞きしたいのですが
譬喩品に、三車の喩えがあります。
玩好の具の羊車、鹿車、牛車をもって、それぞれ声聞、縁覚、菩薩に与えると言って火宅から逃がします。
しかし、火宅から出たあとは、その三車は『下劣の小車』だから与えず、大白牛車を与えます。
ここで疑問なのは、譬喩品では、三乗を、声聞乗、辟支仏乗、大乗(または仏乗)と書かれていることです。
菩薩乗を大乗、仏乗としてしまっては、三車が下劣の小車という記述と矛盾します。
つまり、牛車と大白牛車との違いがわからなくなります。
先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?
> > 先生は、牛車と大白牛車の違いは何だと思われますか?
> 「無上」ということを知るかどうかの違いだと思います。
> 一切諸如來以無量方便 一切の諸々の如来無量の方便をもって
> 度脱諸衆生入佛無漏智 諸々の衆生を度脱して、仏の無漏智に入れたまわん
> 若有聞法者無一不成佛 もし法を聞くものあらん者は一人として成仏せずということ
> 諸佛本誓願我所行佛道 なけん。諸仏の本誓願は、わが諸行の仏道
> 普欲令衆生亦同得此道 普く衆生をして、また同じくこの道を得しめんと欲す。(「方便品」)
> 如来の無量の方便によって衆生を悟らせ、仏の無漏智に入れよう。
> …… 諸仏の本誓願は、自分の行ってきた仏道に衆生も同じように入れることだ。
> この仏道は、また、無上道ともいわれています。諸仏が生まれてくるのは、無上道を歩むからです。無上道というのは、どの道を行こうと到達点は、これ以上のものはない、と知ることだと思います。成仏するとは、仏になることですが、仏になるとは、これ以上の上はないと知って、他の仏たちのことを承認する力をもつことだと思います。
> 阿羅漢になっても、ブッダとは異なります。ブッダの智慧をもって無量の方便が説けるわけではありません。
> 阿羅漢になって、そこで良しとするのは、いまだに釈迦牟尼の元に居たいということかもしれないです。
> 菩薩乗も、ブッダになることをめざす道ですが、牛の車ではあっても、大白牛車とまではいかないので、劣った乗り物になっているのかもしれません。
> つまり、阿羅漢までしかいかない声聞乗と同じように、菩薩乗にいることだけで満足して、仏乗へとなかなか進んでいかないようですと、声聞乗や辟支仏乗と同じということなのだと受けとめています。
> 仏に成るとは、佛慧を用いて、無量の方便を使えるということではないかと思います。
> この『法華経』は、佛慧を用いて衆生を仏道へと向かわせる力をもっているのかどうか、それが、今まで試され続けてきていると思います。
ご回答ありがとうございます。
無上であるということ、他の仏たちを承認する力を持つこと、ですか。なるほど。
三乗思想は、私は好きではない考えです。
部派仏教(いうか、それまでの仏教そのもの)の使徒を証文・縁覚という二乗と決めつけ
自分たちは大乗の道を歩む菩薩だと優位に置く考えは好きにはなれませんし
何より、この思想のせいで、仏陀の筏たる四諦十二縁起が埋もれてしまったのが残念でなりません。
仏教は、かなりジャイナ教の用語を流用しています。
声聞、縁覚(辟支仏)もジャイナ教の用語なので、その使用方法もまちまちで
無理やり仏教に当てはめた感があります。
仏陀の真意は一仏乗、一乗法だと考えます。
究極には、『生じる性質のものは、すべて滅する性質を持つ』の一言だけであり
それから四念処も三法印も派生したと考えています。
法華経は、一仏乗を高く掲げており、やはり仏陀の真意を復興しようとしたと思います。
まず『ブッダ』という呼称について。
ジャイナ教の始祖、マハ-ヴィ-ラがブッダと呼ばれたことは、
マハ-ヴィ-ラの伝記のカルパス-トラにも出てくるようです。
牟尼=muni は、ジャイナ教では、修行者一般を指す言葉だったようです。
『仏教の開祖ゴ-タマの死後、やがて仏教徒がゴ-タマを神格化し、ゴ-タマ個人にブッダの尊称を与えるまでの段階において
ジャイナ教徒も、修行を完成し解脱した人にブッダの尊称を用いていたのである。
したがって、これらジャイナ古層の聖典は仏教においてブッダがゴ-タマの尊称として確立する以前のものといえよう。』
(『ジャイナ古層聖典におけるブッダの概念』より)
声聞も独覚もジャイナ教で使われていた用語です。
声聞、独覚に関しては、ジャイナ教と仏教のどちらが先かはわかりませんが、共通していることは確かです。
『ニルヴァ-ナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。』(ダンマパダ)
目覚めた人は過去にも、現在にも、未来にも無数にいるでしょう。
ブッダはバラモン教にもジャイナ教にも数多くいる。
それが、仏陀の真意だと私は思っている。
歴史上の仏陀は、数多くの人を悟りに導いた人として、世界最大の教師のひとりだと思っていますが
しかし、覚者はバラモン教にもジャイナ教にもたくさんいます。
釈尊の死後、仏教なるものが確立していく過程で、バラモン教やジャイナ教の排斥が起こってきました。
仏教の優越性、独自性ばかりが強調され、その根底にある共通性はどんどん切り捨てられていきました。
それが、仏陀の真意がねじ曲げられていった大きな原因のひとつだと思っています
> ショ-シャンクさまは、独覚と縁覚は違うとおっしゃっていましたが、わたしも変だと思っていました。
>「独覚」は「一人で覚る」ということで、「縁覚」は「きっかけを得て覚る」ということと取れます。
>いずれにしても、ブッダにどこか(過去世かな)で教えを受けているのだ、ということでしょう。
>法華経では、そう考えていますよね。
法華経譬喩品にこうあります。
『もし衆生ありて、仏世尊より法を聞いて信受し、自然慧を求め、独善寂をねがい、深く諸法の因縁を知る、これを辟支仏乗と名づく』
これによれば、声聞と同じく、縁覚も仏世尊から法を聞いているのです。
よく考えれば、二乗は仏陀の弟子のはずです。
ですから、縁覚を師なくして悟ったという決めつけは無理があります。
ひょっとすると、声聞はサンガの中でも、修行仲間といっしょに精舎などで暮らしていた人、
縁覚は、サンガに属してはいるものの群れずに、厳格に山林で一瞑想修行をしていた人かなとも思えます。
名無しの佛教徒さん。
そうですね。伝統教団はいいものです。
私は大好きですよ。
法華経の霊山にもたびたび行っています。
比叡山は毎年行っていますし、身延山も3年連続で行ったことがありました。
最初に比叡山に行ったときや最初に身延山に行ったときは、本当に呼ばれた感じがしました。
旅館で朝起きると、7時のNHKのニュ-スのトップで『山梨県に大雪警報』とありました。
チェ-ンも冬タイヤでもなかったのであきらめかけましたが、行けるところまで行こうと思い出ました。
今でも不思議なことになぜいけたかがよくわからないのですが、ノ-マルタイヤで着くことができました。
あの身延山で参拝客は私だけでした。雪の身延山貸し切りでした。
思親閣に登ったら、お坊さんが『えっ、今日、ロ-プウェイ動いてましたか?』とびっくりされていました。
私は、法華経を毎日読誦していますし、神仏や先祖、伝統宗教への尊崇の念は持っていますよ。
ただ、あるとき、どうしても、歴史上の仏陀は本当は何を言ったのかを知りたいと思ったのです。
ですから、いったん、すべての仏教知識を白紙にして、最古層の仏典から仏陀の真意を汲み取ろうと思ったのです。
まずは、それまでの仏教解釈の全否定から入りました。
ヤフ-掲示板で『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げてからは、数多くの伝統仏教信者の人からレスをもらいました。
それでも、やはり、仏陀の真意を探求してよかったと思っています。
仏陀の真意がわかって、法華経を読むと、もう有難くて仕方ないことがわかります。
白隠が若い時捨てた法華経を悟った後読んで号泣した気持ちがほんの少しだけわかります。
ですから、気に障るかもしれませんが、私は、仏陀の真意から、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏典を読み解いていきたいと思っているのです。