何故インドで仏教は滅びたのか

インドで発祥した仏教ですが、発祥の地インドではいったん仏教は滅んでいます。

現代になって日本人僧侶がカースト下位の人たちのために仏教を布教し仏教徒は少しずつ増えているようですが、やはりヒンドゥー教徒がほとんどで仏教徒はごく少数(1%未満)にしか過ぎません。

なぜでしょうか。

インドでの仏教については、大乗仏教の国日本に生まれた私たちは、こう思っています。少なくとも私はこう思っていました。

 

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紀元前5世紀くらいに仏陀によりインドで興った仏教は、アショカ王などの庇護のもと、インド全土に広まっていきました。

紀元1世紀ころ大乗仏教が興り、紀元2世紀くらいに稀代の論師龍樹が現れそれまでの小乗仏教を見事に論破していって高度な大乗仏教が一気に優勢となり、インド全土にまたたくまに広まっていきました。小乗仏教は、スリランカやタイへと移動していきます。

インド全土で栄えた大乗仏教ですが、6世紀くらいからヒンドゥー教の攻撃を受け、10世紀以降はイスラム教の攻撃を受けます。

そして、1203年にイスラム教徒によってヴィクラマシラー寺が破壊され仏教は滅亡しました。

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このようなイメージを持っている人も多いでしょう。

 

しかし、どうも違和感があります。

最終的にはイスラム教徒の攻撃によって滅んだとされていますが、イスラム教徒はヒンドゥー教にも攻撃したはずです。

ヒンドゥー教は一神教ではなく多神教ですし、イスラム教徒の嫌う偶像崇拝もするはずです。

なぜ、ヒンドゥー教は滅びなかったのでしょうか。

また、寺や仏像などという物質的なものが壊されたと言っても、仏教は心の問題ですから全滅するのはおかしなことです。

第一、仏陀滅後500年は仏像は作られなかったのですし、最初期には寺はありませんでした。

寺や仏像は仏教において本質的なものではないはずです。

 

 

実は、私たち日本人が想像しているのとは、実際の仏教史は大きく異なっています。

一つには、大乗仏教はインドではほとんど流行らなかったのです。

ここに仏教というものの謎を解く鍵があります。

各地の碑を丹念に研究した研究者によると、4世紀までは大乗仏典は作られたものの大乗教団はなく、5、6世紀になって初めてインドの辺境の地に大乗仏教の教団が現れます。そこは、従来の仏教が伝わっていない地域だったということです。

つまり、仏教が広まっていた地域では、新しく興った大乗仏教は隆盛とはならなかったということです。

 

アンドレー・バロー教授によると、5世紀にインドを旅した法顕の旅行記には、『インドには明確に大乗である要素がほとんどない』と書かれているとのことです。

故に、『5世紀初頭のインド仏教はもっぱら小乗のみであった』と結論づけています。

 

その後、三蔵法師玄奘が長安を出発したの629年、7世紀です。

その時のインドで小乗を学ぶ場所は60ヵ所に対し、大乗は24ヵ所でした。

7世紀になっても、インドでは、大乗は少数派でした。

 

辺境の地に大乗仏教教団が現れた頃から、大乗仏教はヒンドゥー教の呪術的信仰の影響を強く受けていきます。

そして、7世紀になって密教が誕生します。

密教の護摩は、ヒンドゥー教の火の儀式ホーマから来ています。

ヒンドゥー教の神々が祈祷の対象となっていきました。

つまり、ヒンドゥー教と融合していったのです。

その前に、バラモン教も仏教やジャイナ教の影響を強く受けて、ヒンドゥー教へと変貌しています。

バラモン教と仏教は、お互いに強い影響を与えたり受けたりしていったことは明白です。

この視点を仏教側は頑なに拒絶しますが。

ヒンドゥー教と融合していった仏教は、イスラム教の攻撃で壊滅的になり、ヒンドゥー教に吸収されてしまうのです。

火の儀式をしてヒンドゥー教の神々に祈祷するのであれば、一般大衆にとっては、ヒンドゥー教と仏教の違いはわからなくなったでしょう。

自然に吸収されていったのではないかと思います。

外部要因としてはイスラム教の攻撃がありますが、内部要因としては、あまりにもヒンドゥー教の色になったということがあげられると思います。

極端にヒンドゥー教化した大乗仏教はそうとしても、それでは、部派仏教はどうしてインドで残らなかったのでしょうか。

それは、僧侶たちの生活形態の変化でしょう。

仏教教団は、仏陀在世の時から資力に溢れていました。

寄付や寄進、お布施がどんどん集まって来たのです。

仏陀が亡くなるときも、仏陀は転輪聖王のように極めて高価な布や綿、香料などで包んで火葬するように遺言しました。

当時は火葬自体、世界的にも、莫大な燃料が要ることから、限られた貴族でしかできなかったのですが、さらに五百重も高価な布でくるんで香料も惜しげもなく使った葬儀をします。

研究者によると、これは、そこの村全部の資産より多くかかるやり方だと言います。

このように仏教教団は膨大な寄進を受けていきますので、各地に僧院が建てられ、僧侶はそこに留まって煩瑣な理論を構築することに没頭するようになりました。

遊行することは少なくなります。

つまり、一般庶民との関係性が薄れていきます。

これが、部派仏教からインドの大衆の支持が離れていった原因ではないかと思っています。

 

もうひとつの大きな原因は、

仏陀とその直弟子の時代の原始仏教が、根本分裂、枝葉分裂で、部派仏教になった時から、仏陀の理法が失われていったことがあります。

原始仏教の時代は、出家も在家も悟れたのです。

仏陀は、四念処法を、出家も在家も涅槃に至る一乗法と呼びました。

在家であっても解脱、涅槃は可能だったのです。

これも『仏陀の真意』に書いた通りです。

しかし、部派仏教になってからは、出家はひたすら煩瑣な理論を構築することに没頭、そして在家は出家にお布施することによって功徳を積むことという、分業となります。

 

そのような出家至上主義に反発して起きたのが大乗仏教でしたが、その大乗仏教もいつしか出家至上主義となってしまいました。

 

このように、出家しなければ、理想の境地に至れないのであれば、在家の一般大衆は、ヒンドゥー教に流れていくでしょう。

 

これが、インドで仏教が滅びた理由だと思います。

 

つまり、在家も理想の境地に至る仏陀の理法が失われた結果だと思っています。