ある寺院による仏教史解説から 4

密教

 部派仏教の時代には、呪句や呪術を僧侶が行うことを禁じていたが、世間一般で行われていた「治歯呪」や「治毒呪」「防蛇呪」といった護身のための呪句を唱えることは許容されていた。また、呪句ではないが、森で修行をする時に木霊などが邪魔をしないように「慈経」を読誦することや『アングリマーラ経』を読誦することで安産を願うなどという習慣もあった。こうした祝福や護身のために経典を読誦することを「パリッタ」(護経、護呪)といい、現在でもスリランカ系仏教で行われている。
 大乗仏教の時代になると、一部の経典はバラモン教で行われていた現世利益を叶えるための呪句を取り入れるようになる。禅宗でも様々な呪句が唱えられているが、中でも最も長い陀羅尼として有名な「楞厳呪」は大乗仏典の『大仏頂首楞厳経』に説かれる陀羅尼であり、中国禅では出家僧の「女人避けのお守り」ともされている。 これを初期密教というが経典はまだ編纂されていない。
 7世紀以降ヒンドゥー教が力を持ってくると、それに対抗するために釈迦が説法する形式の従来の大乗経典とは異なり、大日如来(大毘盧遮那仏)が説法する『大日経』、『初会金剛頂経』などの経典が編纂されるようになる。これを「密教経典」といい後期大乗仏教に分類される。これらの経典の注釈書も作られると、多くの仏・菩薩などが生み出され、その世界観を示す曼荼羅が作られるようになる。この中で釈迦は400余りの仏・菩薩の中の一人に過ぎなくなっている。優勢であるヒンドゥー教に対応しようとした結果、かえって教義は複雑となりインドの大衆には受け入れられなかった。そこで、ヒンドゥー教の神々に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王やガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして、仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊などの明王が登場することになる。これを中期密教という。
 更に8世紀になると、ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す密教が登場する。これを後期密教という。密教における不二智を象徴的に表す男女が交わる姿をした「歓喜仏」も多数登場した。修行者である瑜伽(ゆが)行者がこれら諸尊の交合の姿を実際の性行為として実行することもあったとされる。後にチベット仏教でジョルと呼ばれて非難されることになるこれら性的実践は、主に在家の密教行者によって行われていたと考えられているが、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあった。
 イスラム勢力の侵攻によってインド仏教の崩壊が始まると、仏教復興までの期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土シャンバラという概念が生まれ、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)が侵略者(イスラム教徒)への反撃を行い悪の王とその支持者を破壊し、インド仏教を復興させるという予言が密教の教えとして説かれるようになる。
 日本に密教を伝えたのは最澄と空海である。現世利益を説く密教は公家から多くの支持を集めたが、最澄は密教よりも当時の中国で最も権威があった天台宗を主として学んできたため、密教では空海に後れを取ってしまった。そこで最澄の弟子である円行、円仁(慈覚大師)、恵運、円珍(智証大師)、宗叡が唐に渡り、あらためて密教を学ぶことになる。これにより日本では天台密教と真言密教という二つの密教が生まれることになる。ただし、日本に伝わったのは中期密教であり、後期密教は真言立川流など一部にしか伝わらなかった。これは儒教の影響が強かった唐では、後期密教は性道徳に反するとして受け入れられなかったためであると考えられている。このため、同じ密教でも後期密教が発展したチベット密教と日本の密教ではかなり違うものとなっている。

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この解説によりますと、初期密教はインドでは受け入れられなかったので、中期密教でインドの神々を仏教に取り入れていったようです。

後期密教はチベットでは主流となりましたが、中国や日本では受け入れられなかったようです。