【縁起】
現代の日本で『縁起』と言えば、宗派を超えて、次のような意味に解され、説かれることが多いです。
『私たちは自分以外の無数の存在に生かされている。だから自分なんてない。家族や会社や近所の人たちは当然だけど、今食べている米や野菜を作ってくれた農家さん、それを運ぶ人、それを売る人、いま食べて生きることができているのは、そういう無数の人に支えられていて生かされている。それをご縁という。わたしたちは、縁起によって生かされている命だ。ご縁というのはありがたいもの。ご縁を大切に。』
これが日本仏教の『縁起』です。
しかし、歴史上の仏陀が説いた縁起とは全く違います。仏陀がこのような意味で『縁起』と言う言葉を使ったことは一度もありません。
歴史上の仏陀が説いた『縁起』とは、苦の縁(よ)って起こる原因のことです。苦がその原因に縁りて起こる、その直接原因のことです。
仏陀は、苦の消滅を求め続けました。
仏陀は出家した後、苦の原因を探求していきました。
そして、『縁起の公式』と呼ばれるものを発見しました。
AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。
AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。
これが『縁起の公式』です。
Bの直接原因が、Aです。
なぜ、そのようなものを知りたいのでしょうか。
それは、Bを滅するためです。
Bを滅するためには、Aを見つけ、Aを滅すればいいはずです。
苦を滅するためには、苦の直接原因、根本原因を見つけ、苦の原因を滅すればいいと考えたのです。
つまり、縁起の法とは
Aがあれば苦があり、Aが生じるが故に苦が生じる。
Aがなければ苦はなく、Aが滅するが故に苦が滅する。
このようなAを発見するためのものでした。
そして、仏陀は、四禅定の後、宿住智、天眼智、漏尽智の三明によって、因果の法、四諦の法、十二縁起の法を覚ります。
宿住智によって、過去生を俯瞰して見ることによって苦の根本原因を発見したのです。
天眼智によって、すべての衆生がその行為、想いによって、その赴く境遇が展開することをありありと見ます。
そして、四諦の法によって、煩悩を滅し解脱します。(漏尽智)
その7日後に十二縁起を順逆観じて、縁の滅を成し遂げ、すべての疑念が消滅し、太陽のように一人立つことになります。
成道の時、仏陀は、『努力して思念しているバラモンに、もろもろの理法(ダンマ)が現れるとき、かれの疑惑はすべて消滅する。もろもろの縁の消滅をはっきりと知ったから。』と言います。もし縁起が、『私は自分以外の無数の存在に生かされている。縁起によって生かされた命だ。ご縁を大切に。』という意味であれば、『縁の消滅をはっきりと知った』とは言わないはずです。
『縁起』とは、『苦の縁(よ)って起こる原因』のことであるから、『縁の消滅を知った』と言ったのです。
苦の縁って起こる原因を知り、苦の縁って起こる原因の消滅を知ったから、苦の消滅に至ったのです。
仏陀が『縁起』という言葉を使うときは、十二縁起(五支縁起などの短縮形もありますが)、すなわち、苦の縁って起こる原因という意味で使うことがほとんどです。
縁起のパーリ語は、paṭicca-samuppāda です。
縁りて生起すること、です。
因縁のパーリ語は、hetu-paccaya です。
この場合、因(hetu)も縁(paccaya)も、同じ『原因』という意味です。
仏陀の死後、後世において、因を直接的な原因、縁を間接的な原因とする見解が生じました。あるいは、因を原因、縁を条件、という見解が生じてきましたが、本来は、因も縁も同じ直接的な原因のことです。