縁起とは十二縁起のこと

『十二因縁は因・縁・果の時間的連鎖であり、「因縁」と「縁起」は分けるべきである。混同するから、表面的な言語に振り廻されて、群盲のカラ騒ぎとなる。十二縁起ではなく、〈十二因縁〉である。』

などと書いている人がいたので、それについてコメントします。

 

縁起の原語(パーリ語)は、paticca-samppada です。

縁って生起すること、です。

 

因縁の原語(パーリ語)は、hetu-paccaya です。

この場合、因(hetu)も縁(paccaya)も、同じ『原因』という意味です。

 

仏陀の死後、後世において、因を直接的な原因、縁を間接的な原因とする見解が生じました。あるいは、因を原因、縁を条件、という見解が生じてきましたが、そんなことは歴史上の仏陀は一切言っていません。

縁起の意味がどんどんねじ曲げられたため、仏陀の真意は失われていったのです。

 

相応部経典12.1 法説 において

仏陀は、『わたしはいま、なんじらに縁起を説こう』と言って

『比丘たちよ、縁起とは何であろうか。無明に縁りて行があり、行に縁りて識があり、識に縁りて名色があり、名色に縁りて六処があり・・・・・・有に縁りて生があり、生に縁りて老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦しい人間存在の縁ってなるところである。これを縁によって生起するというのである。』と説いています。(増谷文雄訳)

 

およそ、十二縁起を説くときに、因縁などと言う言葉はどこにも使われていません。

仏陀が説く縁起とは十二縁起のことなのです。

五支縁起や十支縁起など略したものはありますが、縁起とはすべて苦の縁りて生起する原因のことです。

 

前にこう書きました。

 

仏陀が求めたのは、苦の消滅なのです。

苦の消滅のみを求め続けたのです。

そして、仏陀は苦の原因を探求していきました。

これが縁起です。

AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。

AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。

Bをなくすのには、このようなAを見つけ、Aを滅することによってBを滅することができると考えたのです。

つまり、縁起の法とは

Aがあれば苦があり、Aが生じるが故に苦が生じる。

Aがなければ苦はなく、Aが滅するが故に苦が滅する。

このようなAを発見するためのものでした。

 

 

 

AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。

AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。

これが縁起の公式と呼ばれるものです。

これに当てはまらなくては縁起ではないのです。

 

つまり、縁とは間接的な原因などではなくまして条件などでは全くなく

それがないと生じない、それが生じれば生じる、まさに根本的な原因のことです。

 

つまり、後世の縁起、縁の解釈は全くの間違いなのです。