成道したときに仏陀は『私が悟ったこの法は実に深遠で、見難く、理解しがたい。人々は、執着を楽しみ、執着を喜び、執着に歓喜している。説いたとしても、疲れるだけ、私に悩みとなるだけであろう』と思って、説こうとしませんでした。
そこで、梵天勧請が行なわれます。
さて、『私が悟ったこの法』とは何でしょうか。
その時の言葉の中に『この道理は、すなわち、この縁となるもの、縁起というものは見難い』とあることから、縁起の法だと考えられています。
それも、十二縁起ではなく、『すべての存在は他のすべてに縁起している。(だから無自性で実体がなく空である)』という法を覚ったのだと、特に大乗仏教の人は思いがちです。
本当はどうでしょうか。
仏陀は、
四禅定⇒宿住智⇒天眼智⇒漏尽智
と進んでいきます。
このようにして、心が、安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものになると、その私はもろもろの煩悩を滅する智に心を傾注し、向けました。
その私は、
『これは苦である』と如実に知りました。
『これは苦の生起である』と如実に知りました。
『これは苦の滅尽である』と如実に知りました。
『これは苦の滅尽にいたる行道である』と如実に知りました。
『これらは煩悩である』と如実に知りました。
『これは煩悩の生起である』と如実に知りました。
『これは煩悩の滅尽である』と如実に知りました。
『これは煩悩の滅尽にいたる行道である』と如実に知りました。
このように知り、このように見るその私には、欲の煩悩からも心が解脱し、生存の煩悩からも心が解脱し、無明の煩悩からも心が解脱しました。
解脱したとき、解脱したという智が生じました。
『生まれは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや、この状態の他にはない。』と知ったのです。
王子よ、これが、夜の後分に私が証得した第三の明智です。
怠けることなく、熱心に、自ら励み、住む者にふさわしく、無明は滅ぼされ、明智が生じたのです。
闇は滅ぼされ、光が生じたのです。
王子よ、そこで私はこう思いました。
『私が証得したこの法は実に深遠で、見難く、理解しがたく、寂静で、勝れ、推論の範囲を超え、微妙で、賢者によって感受されるものである。
しかし、この人々は執着によって楽しみ、執着において楽しみ、執着においてよく喜んでいる。
執着によって楽しみ、執着において楽しみ、執着においてよく喜んでいる人々に、
この道理、すなわち、この縁となるもの、縁起というものは見難い。
またこの道理も、すなわち、あらゆる行の寂止、あらゆる生存素因の捨棄、渇愛の滅尽、離貪、滅、涅槃も見難い。
しかもまた、私が法を説いても、他の者たちが私をよく知ることができないならば、それは私に疲れとなるであろうし、それは私に悩みとなるであろう。』と。
このように、文章の全体を読むと、『私が証得したこの法』とは何を指すか、極めて明瞭です。
『これは苦である』と如実に知りました。
『これは苦の生起である』と如実に知りました。
『これは苦の滅尽である』と如実に知りました。
『これは苦の滅尽にいたる行道である』と如実に知りました。
『これらは煩悩である』と如実に知りました。
『これは煩悩の生起である』と如実に知りました。
『これは煩悩の滅尽である』と如実に知りました。
『これは煩悩の滅尽にいたる行道である』と如実に知りました。
つまり、四諦の法です。
次に、2つの『道理』が示されています。
この道理、すなわち、この縁となるもの、縁起というものは見難い。
またこの道理も、すなわち、あらゆる行の寂止、あらゆる生存素因の捨棄、渇愛の滅尽、離貪、滅、涅槃も見難い。
『この道理、すなわち、この縁となるもの、縁起というもの』というのは、これらが縁って起こるもの、つまりそれらの原因、です。
苦の縁って起こる原因、『これは苦の生起である』という道理です。集諦です。
『この道理も、すなわち、あらゆる行の寂止、あらゆる生存素因の捨棄、渇愛の滅尽、離貪、滅、涅槃』というのは、苦の滅尽という道理です。
『これは苦の滅尽である』という道理です。滅諦です。
つまり、仏陀は、明らかに四諦の法を『私が証得したこの法』と言っているのです。
仏陀の言葉のほんの一部、自分の都合のいい箇所だけ切り取って、自分のドグマの証明に使ったりする仏教学者が横行していますが、仏陀が成道の時に悟った法とは、四諦の法なのです。