hiponistさん、こんばんは。
>人生に無くてはならない本です。
嬉しいお言葉、ありがとうございます。
『仏陀の真意』は、仏教の入門書と思って読んだ人は面くらうと思います。
今までの仏教解釈の否定から成り立っているからです。
私は、小学生や中学生のときから、なぜか、仏陀や仏教に興味がありました。
仏教とは全く縁がない環境だったにもかかわらず。
仏教に縁がないと言えば、私の家ほど、仏教に縁がない家も珍しいでしょう。
家の宗教は神道でした。
曾祖父までは田舎で神社の神主をしていた家です。
父親は宗教嫌いで宗教を信じる人を馬鹿にしていました。
普通は、どこの家でも、親戚には、創価学会や立正佼成会などの仏教系新興宗教の信者が一人くらいいるものですが、商売屋ばかりでそういう人は一人もいませんでした。
寺にも坊さんにも何の接点もない環境で、なぜか小さい時から仏陀に関心がありました。
小学校や中学校で、よく、『歴史上の人物で尊敬する人は?』とか、『歴史上の人物に会えるとしたら誰に会いたいか』というようなことをみんなで意見を言い合うようなホームルームがありましたが、ほとんどが織田信長とか坂本龍馬などで、仏陀と答えるのが皆無なのが信じられませんでした。
たぶん、みんな、会えるとしたら仏陀に会いたいのは当然で、みんなが仏陀と言ったら面白くないので、わざと別の織田信長にしているのだと思いました(笑)
それほど、誰かに会えるとしたら誰か、という問いでは、自分の中では圧倒的に仏陀でした。
原始仏教が小乗仏教と馬鹿にされている時代で、仏陀に関する本などほとんどない時代でしたが。
仏教の本を読み始めてからも、なぜか、歴史上の仏陀はこういうことを言おうとしたのではないのではないか、という漠然とした疑問が絶えずありました。
それが何故かはわかりません。
文献学が進化して、どれが歴史上の仏陀の肉声に近いものかが分かるようになって、それまでの仏教解釈を白紙にして、肉声に近いものを当たってみると、全く景色が違うものとなりました。
私の解釈が合っているか、どうかなどはわかりません。
それこそ、仏陀に聞くしかありません。
ただ、どうしても、本と言う形に残しておきたかったのです。
それが究極の自己満足であることはわかっています。
しかし、私が死んでから何十年後にふと本を手に取った人がそれをきっかけに考え始めてくれるかもしれません。
そうならないかもしれませんが、いずれにせよ、本という形になったので、私としてはほっとしています。