koboyukiさん、こんばんは。お久しぶりです。
紹介されたブログ見てみました。
私が1年前2年前に書いていたことに似ていますが、違うところも多々あります。
まず、原子論と結びつけているところ。
仏教をそのときの最新科学理論と結びつけるのは、昔からよくやられていた手法です。
相対性理論や量子力学を用いて仏教を解説したりする人も多いのですが、そのほとんどは科学理論を浅くかじっただけで仏教にこじつけて説明しようとするので、トンデモ理論になることが多いです。
このブログにこんな文章がありました。
『科学的表現をすれば、迷いの世界は、過ぎ去る分子の世界のことです。』
『科学的表現をすれば、涅槃の世界は、過ぎ去らない原子の世界のことです。』
ちょっとびっくりしました。
これはごくごく初歩的な科学用語ですが、的外れです。
なぜ、科学的知識もまるでないのに、仏教者は科学理論を用いようとするのでしょう。
量子力学者が、仏教の華厳経にヒントを得たりすることはあったでしょう。
道教も大きく量子力学に影響を与えています。
しかし、理論物理学の大学院を出ていない仏教者が、聞きかじりの科学理論で仏教を説明しようとするのは滑稽な感じがします。トンデモになっていることが多いです。
また、七覚支や十二縁起などに関しても、Wikipediaで検索したくらいの説明をそのまま写している感が否めません。
七覚支は、仏陀の悟りへの経験に裏付けされたもので、この順番で有機的に繋がっているのです。
仏教用語を、一語一語の無機的な用語解説にしてしまっている仏教者がいかに多いことか。
七覚支も八正道もその順番が一つ違うと成り立たないのです。
七覚支は、
念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨
ですが、
これは仏陀の実際の悟りへの過程に裏打ちされています。
その過程は、具体的に、原始仏典に記載されているのです。
必ず、前の項目があって、次の項目が生じるのです。
有機的に繋がっているのです。
今までの仏教解説書のほとんどは、七覚支にしても八正道にしても、Wikipediaで書いてあるような、一項目ごとに曖昧な訳をつけたものでした。
例えば、『精進』を『努力』とだけ訳している仏教書がいかに多いか。
本当は、『精進』は極めて具体的なことを示しているのに、大乗仏教では、『努力』という一般的な言葉になってしまいました。
もし、『精進』を『努力』とだけ解説している本があれば、それは読む価値はないと私は考えています。