遠佐さん、私は最初から今までこう言っています。
私は、歴史上の仏陀は本当は何を言ったのか、を探求しているのだ、と。
例えば、キリスト教ではそのようなことは起きません。
何故かと言うと、四福音書は確定しているからです。
イエス・キリストが言った言葉は誰にもすぐわかります。
しかし、仏教はそうではありません。
仏教も、第一結集で、歴史上の仏陀の肉声を確定させたのですが、それを文字にすることはありませんでした。
そして、何百年も経ってから、歴史上の仏陀に会ったこともない人たちが、『如是我聞』と言って膨大な経典を作り始めました。
そのすべてが、仏陀の肉声として中国、日本に伝来したのです。
これも何度も書いていますが、私は、歴史上の仏陀が言ったから正しい、歴史上の仏陀が言ってないから間違い、とは書いていませんし思っていません。
その言葉は、歴史上の仏陀が言ったことか否かということを指摘するだけです。
私の個人的な願望として、歴史上の仏陀は本当は何を言ったのか、を知りたいと思っているのです。それだけです。
例えば、誰かが『仏陀は、縁起を見るものは私を見ると言った』と書いた場合、
仏陀は『縁起を見るものは法を見る』は言ったし、『法を見るものは私を見る』とは言ったけど、『縁起を見るものは私を見る』とは言っていない、という指摘をするのです。
例えば、『縁起』という言葉が、仏陀が使った意味と全く違う使い方で語られているときには、『それは仏陀が言う縁起の意味ではない』と指摘するだけです。
もし、その使い方で仏陀が使っている場面があるのであれば、仏典を示してください、というふうに言います。
歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求しているので、そういう視点で見ているというだけです。
例えば、聖書は当然仏陀が言ったことではないですが、素晴らしいと思っています。
歴史上の仏陀が言わなかったことで素晴らしい経典は数多くあります。
2000年もの時間に耐えて残っているものはみな素晴らしいのです。
ただ、私は、どうしても、歴史上の仏陀が言ったことは何だったかが知りたいのです。
これも何度も言っていることですが、私は、誰が何を信じようとどうでもいいのです。バラモン教もヒンドゥー教もジャイナ教もキリスト教もイスラム教も浄土教や禅宗などの大乗仏教も、部派仏教も、聖者や救われた人はごまんといると思いますよ。
歴史上の仏陀つまりゴータマ・シッダッタ以外にも、覚者は無数にいると思っています。
歴史上の仏陀は阿弥陀仏については一度も言ったことはなく、言ってないという事実は指摘しますが、阿弥陀仏を信じて救われた人たちがいるというのを否定はしません。妙好人など素晴らしい境地に達しているからです。
ただ、私は、矢を抜く最上の人である仏陀が、本当はどういうことを言ったのかが知りたいだけです。
自分の知識をすべて白紙にしなければいけないほど、今の仏教には、歴史上の仏陀が言ったことではないものが圧倒的に多いのです。
また、歴史上の仏陀が言った意味ではないことで解釈されていることが非常に多いのです。
『仏陀は自らの過去をありありと見た』というのは、仏陀自身が三明の宿住智のときに言っているのです。
kamma(行為)が世界を作る、人々を作る、というのも仏陀が言っていることです。
そして、自分のこの人生の過去を見た場合、本当に、悪い身口意の行為は悪い自らの世界を作り出してきたことを実感するので、そうだな、と思うのです。
『なぜ形成力があるのですか?』というご質問のようですが、それを、後世の仏教は唯識などで説明しようとしました。
ただ、歴史上の仏陀にもし『行為がその人の世界を作るのはわかりましたが、なぜそのような形成力があるのですか?』と聞いたら、やはり毒矢の喩えを言われるのではないでしょうか。形而上的な考察に入り込んでいくことになるからです。
善い行為が形成力によってよい自らの世界を作っていくのだから、ひたすら不善の法を捨離し、善法を増やしていきなさい、と言われるのではないでしょうか。
これも、すべて、私の仏陀の教えの解釈にしか過ぎません。
私は確信を持っていますが、それを信じてほしいなどとは全く思いません。
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