仏教についてのひとりごと 77

天台の五時教判が決定的でしたね。

釈尊が悟った後、すぐに説いたのが華厳経。でも悟りそのままの内容だったので難しくて誰も理解できなかった。
それで、釈尊は、低い教えである阿含経から説いたとされてしまいましたから。

 

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そういうことでしょうね。

ただ、私は、根本分裂のあと部派仏教の時代になって
各部派が、アビダンマという煩瑣な哲学に没頭し始めました。
これが悪かったと思っています。
ここで仏陀の真意は失われたのではないかと。
そして、大乗仏教は失われた仏陀の真意の復興運動ではなかったかと思うのです。
ただ、新たに興った大乗仏教は既成の部派仏教の批判勢力でしたから
それまでの四諦十二縁起も捨ててしまったと考えています。
仏陀が残した筏を捨ててしまったので、悟る人が仏陀の時代に比べてほとんどいなくなったのではないかと思うのです。

 

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私の書いた『仏典の本当の意味を知るということは仏陀の真意を知ることだからです。』は、
ゴータマ・シッダッタの真意ということを指しています。
仏典は会話の最初から中部経典です。

それに対し春間氏は『仏陀 が 仏陀の真意を知る者です』と書きました。
このときの『仏陀』がゴータマ・シッダッタを指すとすれば
この文章は『ゴータマ・シッダッタはゴータマ・シッダッタの真意を知るものです』という文になります。
本人が本人の真意を知るものであることは当たり前のことですから、文として成り立たないのです。
次の文『それを 「法華経」 では 「  唯仏与仏 乃能究尽 」 と 表します』と
合わせて
これは、春馬氏が、私の『(原始)仏典の本当の意味を知ることはゴータマ・シッダッタの真意を知ること』という意味を
仏陀という言葉をゴータマ・シッダッタ個人ではなく、諸仏という方向に持っていこうとしたので、私は、それを指摘したということです。


ただ、それから、あの会話をもう一度読んでみてはっきりと分かったことですが
春間氏がなぜあのような会話をしたか、それは、
春間氏は『中部経典 象跡喩大経』を読んでいないのに、読んでないと言えない性格で
変な質問ばかり連発して、そして最後に
『仏陀 が 仏陀の真意を知る者です』と言った本当の意味は
『悟っている私(春間氏)は、その経典を読んでいなくても、仏陀の真意を知っている』という意味だったと思い当たりました。
その解釈で下の会話は納得できます。
 ⇓
わたし『あなたは、自分から『縁起を見るものは法を見る 法を見るものは縁起を見る』
    という文章を挙げましたが、本当に、その文が書かれた仏典を全部読みましたか?』
春間氏『それを知って あなたにどういういいことが起きますか ?』
わたし『文章の抜き書きではなく、それが書かれている仏典を全部読めば
     縁起の意味、法の意味がはっきりとするからです。』
春間氏『法の意味を知ってどうしますか ?』
わたし『仏典の本当の意味を知ることが重要だと思わないのですか?』
春間氏『なぜ重要ですか ?』
わたし『仏典の本当の意味を知るということは仏陀の真意を知ることだからです。』
春間氏『仏陀 が 仏陀の真意を知る者です
    それを 「法華経」 では 「  唯仏与仏 乃能究尽 」 と 表します』

 

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<<中道とか八正道のことですか?>>

 

それ以外にも多くのことが埋もれています。
戒律も、本質的な戒律は一つだけだということがわかります。
それ以外の戒律は、サンガができてから、集団生活をするようになって
随犯随制で作られていったものです。
八正道も、本当は実に深いのです。
今の仏教では、仏教の基礎知識として八つの道徳科目というような解釈で
さらりと触れられるだけですが
八正道は八つの倫理項目というようなものではありません。
中道とは八正道のことと仏陀は言われています。
正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
この順番にも深い意味があって、この順番でなければ絶対にいけないのです。
正精進も6番目に来なければいけないのです。
1滴の水滴が大海に流れ出るようにされているのです。
相応部経典にそういう記述もあります。

他にも、悟ったときに瞑想していた十二縁起の解釈や、仏陀成道のときの3つの偈、
最勝の法と言われる四諦の本当の意味。
とにかく、凄いワールドであることがわかりました。

 

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<<中道、八正道、四諦の中に釈迦が言いたかったことは全部含まれていて、その他のことは、釈迦が言った言葉ではなく、あとから解釈として付け加えられたということですね>>

 

四諦は象の足跡という仏陀の言葉があるように、他の教えもすべて入るくらい包括的です。
最勝の法と言われる所以です。
しかし、中道、八正道、四諦、十二縁起以外ののことは仏陀が言ったことではないということではありません。
縁起も中道も八正道も四諦も、解釈が違うということです。

 

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あなたの仏教についての見方が、日本の仏教の圧倒的な定説でしたね。
それは、歴史上、天台の五時教判の考えが日本の仏教の主流となったからです。
私は、高校の時から禅や大乗仏教の本を読んでいて、ずっとあなたのように考えてきました。
大乗仏典にも親しんできました。
大乗仏教の聖地である比叡山や身延山にもたびたび行って、その都度不思議な体験もしてきました。
ですから、大乗仏教に対するリスペクトは人一倍ありますよ。

しかし、歴史上の仏陀=ゴータマ・シッダッタが本当は何を言いたかったのかを調べるために
パーリ語原典から読んでいくと、目から鱗でしたね。
仏教(大乗仏教も上座部仏教(小乗仏教)も)がゴータマ・シッダッタの真意とはかけ離れたものになっているということに愕然としましたし、それは何故かを探ってきて
いま、やっとまとまりつつあります。

これを、このような掲示板で書いても、アラシがごまんと湧いてくるだけですので
無益なことです。
今までの仏教の解釈と全く違うことを思っているのですから当然のことです。

時間が許す限りは、この『仏教についてのひとりごと』掲示板にも『映画についてのひとりごと』『法律についてのひとりごと』『カリナン原石を探せ!』という私のスレにも返信はしていこうとは思いますが、最優先は四諦十二縁起の瞑想と自費出版の原稿書きにしたいと思っています。

 

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<<おー自費出版の本を出すんですね^_^素晴らしいです。是非読みたいです。>>

 

ありがとうございます。
いずれにせよ、原稿を書くのに今年いっぱいはかかるでしょうけど。
あまりにも今までの仏教常識とは違う本になるので、読んでくれる人はいないだろうと思っています。
しかし、誰に読まれなくても、自己満足でいいのです。

 

<<折角、自分のお金をはたいて自費出版するんです。 今10分かってると思っても、1年後にはやっぱりあの時は5しか分かってなかったなって思うこともあると思うんです。
だから充分に準備の時間をとって悔いの無い本を出して欲しいです。>>

 

ありがとうございます。確かに自費出版には何百万円かはかかりますが
自分が経営する会社倒産の危機を神仏に助けていただいて
会社は無借金の優良企業に生まれ変わりましたし、自費出版を出そうと思えば何冊でも出せるだけの個人の資産もできました。
そろそろ原稿に取り掛かります。
仏陀の真意に関する疑問もほぼ氷解しましたから、

 

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例えば『縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。』という仏陀の言葉があります。
その意味を正確に解釈し理解できなければその実践はできませんよね。
誤った解釈では、誤った実践になるということです。
『人の嫌がることを進んでしよう』という文章があった場合
その言葉を言った人の真意は『汚いトイレ掃除などの人が嫌がってしようとしない仕事を進んでしよう』という意味だったとします。
しかし、それを解釈した人は『人が嫌がる嫌がらせを進んでする』と勘違いした場合
その誤った解釈で実践したら大変なことになります。

ですから、私は春間さんと『縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。』の言葉の解釈を論じようとしたのですが、春間さんは自分の解釈を示さないままいなくなってしまいました。

『縁起』という言葉にも『法』という言葉にも様々な意味がありますので
どの意味と解釈されているのか、ということをあなたにお聞きしたのです。

 

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『縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。』が書かれている仏典(象跡喩大経)はあれから読まれたでしょうか。
というか、パーリ仏典は全部持っているとのことでしたので
すぐにでも読めると思うのですが
その出典を読んでから
『縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。』の意味は何なのかを論じ合いたいと思っていますがいかがですか?

 

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