ひださん、こんにちは。
そうですね。
私も、十二縁起のうち、『行』『識』『有』が難題中の難題でした。
この3つが解明できれば、十二縁起がついに解明されます。
『行』と『識』に関しては、相応部経典『分別』の記述が、私には大きな壁となって立ち塞がりました。
相応部経典『分別』では、
『行』とは、身行・口行・心行の三行だとあります。つまり、身口意の行為です。
『識』とは、眼耳鼻舌身意の六識だとあります。
しかし、
無明⇒行⇒識⇒名色
とありますように、名色=五蘊の集まり=肉体と精神=個体 が形成される前に
行と識はあります。
肉体が形成される前に、身口意の行為や眼耳鼻舌身意の六識があるのは理が通りません。
このことにより、十二縁起の有力な説では、無明⇒行 は、前世での無明と行為と解釈しています。
しかし、私は、無明⇒行 を安易に前世とすべきではないと考えていました。
前世での無明や行為であれば、今世で滅することができないからです。
無明も行も滅するためには、今あるものでなければならないはずです。
少なくとも、いまたちどころに滅することができなければ苦の全体を滅して涅槃に達することなどできません。
『識』も同じように、肉体ができる前に六識などあるはずがなく、本当に難題でした。
しかし、『識』に関しては、相応部経典や中部経典により、
識⇒名色 の間にだけ、相依性があるとわかりました。
つまり、識があるから名色があり、名色があるから識があるのです。
これが、相依性です。
『識』は結生識(patisandhi viññâna)です。
結生識がなければ、名色は形成されません。
また、名色が生まれ育つことがありません。
と同時に、名色が生まれ育つことにより、識ははっきりと六識となります。
ゆえに、識があるから名色があり、名色があるから識があるのです。
結生識は受精したときの識であり、まだ六識とは言えません。
相応部経典と中部経典によって、識⇒名色 の 相依性の本当の意味がわかりました。
1、条件付けられ形成されたもの=現象
2、潜在的形成力
3、意志作用
4、身・口・意の行為(業=kammaと同義)
そして、十二縁起の〈行〉は、この2と3と4を包含するような意味であると書きました。
これを一言で言えば、業力という言葉に似たようなものになるかもしれません。
『業力』というのは、身口意の行為特に想いが現象化していく潜在的な形成力であり現象世界(外部)の方向に働きかける意志作用というものだからです。