仏教についてのひとりごと 91

<<「無明」「行」を必ずしも過去生のものとせずに、人の生れ出る直前の状態、つまり、過去生を終えて「業」や「因縁」を受け継いできている状態と考えてみては、どうでしょうか?>>

私の理解では、無明⇒行 は、過去生のカルマではありません。
そういう捉え方をしてはいけないのです。
行を身口意の行為と解釈すると、個体の前に行為がきますから、どうしても過去生の行為となってしまいます。
「業」や「因縁」とも違って、人間は個体を形成したいから形成するのだと思います。
無明のために、五蘊を仮合させているのです。
この理解があって初めて、無明を滅することができるのです。

私は、『行』は『形成しようとする意志』と解釈しました。
2日前に読んだビク・ボディの解説では、『行』が『意志的な形成力』となっていたので、びっくりしたのです。
ほとんどの解説では、『行』は『行為』となっていましたから。

しかし、おっしゃるように、ビク・ボディは『有』と『生』をごまかしています。
『生』を来世とするのか違うのかははっきりとさせないといけないのです。
どの解説書でもそこはごまかしていることが多いですね。

 

 

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<<相応部経典を翻訳されているのは、ショーさんが高く評価されている中村元先生だと思いますが、これについてはどうお考えなのでしょうか?>>

たーぼーさん、こんばんは。
相応部経典を訳している人は中村元だけではなく数多いですよ。
私も増谷文雄とかの訳もよく読みます。
誰が訳そうと、相応部経典『分別』はあのように訳すしかありません。
パーリ語も当たってみましたが、誤訳はないですね。

相応部経典でも、成立年代はバラバラです。
どれもスッタニパータよりは遅い層です。
特に『分別』は非常に理路整然と分析的な文章で、明らかに後世に整えられた感じがします。

中村元は翻訳家としては非常に優れていると思いますし、非我と指摘した功績は甚大です。
しかし、これはこんな訳ではないはずだ、というような箇所も複数あります。

訳者を全面的には信用せず、気になるところは自分でパーリ語を調べるしかありません。

 

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pipitさん、こんばんは。
宝経を貼ってくださりありがとうございます。

宝経と慈経は本当にいいですね。
229では、中村元訳は四諦とはっきりとは訳してないですが
正田大観訳では聖なる真理=四諦 とはっきり訳していますね。

 

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<<元々のパーリー語の原典が改竄されているか、パーリー語で書いた人の力量に問題がある可能性もあるということですね>>

仏陀の言説は、仏陀の死後数か月後に弟子たちが第一結集を行なって仏陀が説いたものだと確認されたものをサンガの中で口承により伝えていきました。
紙の上に文字として残し始めたのは、仏陀の死後200年以上は経った後です。
最も早く成立したのがスッタニパータです。
後世に成立すればするほど、不純物や夾雑物は入っていきます。
また、後世に付加されたり整えられた理論を書く場合もあります。
相応部経典も古層のものもありますが、新しいものもあるのです。

 

<<パーリー語が読めるというのはショーさん凄いですね。>>

パーリ語が読めるわけではありません。
日本語訳をベースに読んでいて、ここはおかしいと思ったらパーリ語辞典で調べる程度です。

 

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仏陀は、自分の言説は、その地方で使われている言葉で表しなさい、サンスクリット語にしてはいけない、とわざわざ戒めています。
サンスクリット語は一般の会話で使われる言葉でなく聖典用の言葉だったのですが
仏陀サンスクリット語で表すことを禁じました。

 

 

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