中部経典『無碍経』

中部経典の第60は、『無碍経』です。

 

釈尊は、サーラーという村のバラモン資産家たちに、

『あなたたちが、好ましい師を得ていないのであれば、この無碍の法を受け取り行なうべきです。』

 

こう言ってから、様々な見解に対して、賢明な人はその見解を持つことによる結果を熟慮します。

 

まず、

『布施されるものはない。供養されるものはない。善行・悪行の業の果報はない。この世はない。あの世はない。正しく実践している沙門・バラモンはいない。』

という虚無論です。

唯物論といっても断滅論と言ってもいいですが、こういう見解は現代では主流です。

仏教が、こういう断見だと考えている人は驚くほど多いのが現状です。

ヤフー掲示板で、よく『死んだら仕舞い。何もないのが仏教だ』と言っている人がいました。

特に『無我』と言う言葉を、死んだら何もない、と解釈している人だらけでした。

 

これについて、釈尊はこう言います。

『確かに、あの世はあるから、〈あの世はない〉と言ったら邪見になります。』

 

この邪見によると、人は善法を避け、不善法を行ないます。

こういう結果を熟慮して、『あの世はある』ということを正法とします。

 

ここではっきりと、釈尊は死後の世界の存在を断言しています。

釈尊がここまではっきりと断言しているのに、仏教者の多くが死後の世界や輪廻転生を否定しています。

釈尊の言ったことを否定するのであれば、仏教などやめればいいのにと思います。

 

次に、こういう邪見を挙げます。

『殺生しても、邪淫しても、嘘をついても、罪悪はない。布施をしても功徳はない。』

 

このように善悪の行為の報いはなく、作用はない、と説くのは邪見だと言っています。

 

この邪見によると、人は善法を避け、不善法を行ないます。

 

行為には作用があり、果報があるのです。

これが、釈尊の理法です。

 

次に、こういう邪見を挙げます。

『人は力がなく、人は因となれない。人には、汚れの因もなく、清浄の因もない。人には自在力がなく、ただ運命により、楽と苦を経験する。』

 

このような運命論者もこの世にはびこっています。『人間には自由意思がない』という人たちです。すべては因縁のまま、運命のまま、と考え、自分が因となることなどできないという考えです。

 

この邪見によると、人は善法を避け、不善法を行ないます。

 

 

次に、『無色界はすべてない』という見解を挙げます。

『無色界はすべてない』ということが真実ならば、もろもろの天は色(形)があるということになります。

『無色界はすべてある』と言う言葉を真実ならば、天は色(形)がなく、色によって、棒や刀を執ること、不和、口論が見られることがない。

こう熟慮して、実践する。

 

その次に『生存の滅尽はすべてない』という見解を挙げます。

『生存の滅尽はすべてない』という見解の場合、貪欲に近いもの、束縛に近いもの、歓喜に近いもの、愛着に近いもの、取著に近いものである。

『生存の滅尽はすべてある』という見解の場合、無貪欲に近いもの、無束縛に近いもの、無歓喜に近いもの無無愛着に近いもの、無取著に近いものである。

このように熟慮し、もろもろの生存のみの厭離にため、離貪のため、滅尽のために実践しているのです。

 

 

以下、『カンダラカ経』と同じ記述となります。

 

釈尊は、四種の人間のことを語ります。

 

1、自らを苦しめる者

2、他を苦しめる者

3、自らを苦しめ、他を苦しめる者

4、自らを苦しめず、他を苦しめない者

 

1の自らを苦しめる者は、苦行を行なう者。

2の他を苦しめる者は、猟師や漁師、牛殺しなど。

3の自らを苦しめ、他を苦しめる者は、横暴で残虐な王族などの支配者。

そして、4の自らを苦しめず、他を苦しめない者とは、この世に如来が現われていることを知り、出家し、不善の法を離れて修行し、五蓋を捨断し、四禅定に住みます。三明を獲得します。そして解脱します。

 

ここでも、

不善の法を捨離⇒五蓋の捨断⇒四禅定⇒三明⇒解脱

が出てきます。

 

 

具体的には、

殺生・盗み・邪淫・妄言・両舌・悪口・綺語・などの不善の法を捨離する

眼耳鼻舌身意の感官から悪しき不善の法が流れ込まないように防護する

食べるにも飲むにも大小便をするにも正知をもって行動する

五蓋を捨断する

これが、不善の法の捨離となります。

 

その後、

第一の禅⇒第二の禅⇒第三の禅⇒第四の禅⇒宿住智⇒天眼智⇒漏尽智(煩悩を滅する智=四諦)⇒煩悩からの解脱

 

となります。