十二縁起はなぜ難解か

四諦、十二縁起、四念処、七覚支、これらは仏教の基本で、特に、四諦と十二縁起は仏教の入門書にも必ず出てくるほどです。

象の足跡が他の動物の足跡を包含するくらいに大きいという喩えで、四諦は、他の理法を包含すると言われています。

十二縁起は、菩提樹下で仏陀が悟ったときに、繰り返し瞑想してすべての疑念を消し去ったという、極めて重要な、仏陀の悟りとは何かを解き明かす鍵でもあるのです。

しかし、人類は、四諦十二縁起について解き明かすことはせず、それを瞑想することもありませんでした。

特に、大乗仏教になってからは、四諦は声聞の修行法、十二縁起は縁覚の修行法というレッテルを貼られて捨てられてしまいました。

捨てた、と言ったのは、大乗仏教では、声聞縁覚の二乗は小乗とされ、ひどいときは、焼いた種が芽が出ないように声聞縁覚は仏になれないとまで罵倒されているからです。

そこまで貶されている声聞縁覚になりたい人はいるはずがなく、その修行法とされた四諦十二縁起は捨てられました。

 

ただ、四諦と十二縁起が解き明かされてこなかったのはその理由の他に、

四諦は文字の表面をなぞっただけの解説しかなかったからです。

四諦は、苦・集・滅・道 です。

巷の仏教の解説書では、

苦諦とは、人生は苦しみであるということ。

集諦とは、その苦しみの原因は執着であるということ。

滅諦とは、その執着を滅すれば苦しみはなくなるということ。

道諦とは、八正道で、苦しみを滅するための実践方法。

ということになっています。

はっきり言って、この解説では、何の役にも立ちません。どころか、かえって人生を無駄にしてしまいます。

このような表面的な解説をしている人は、本当に『人生はすべて苦である』のか、『執着と何か』『どこから意志で、どこから意欲で、どこから本能で、どこから執着なのか』、突き詰めて考えたこともないのです。

オリンピックで金メダル取ろうと必死になって過酷な練習している人は、執着なのか?

もし執着とするなら人類から執着を取り除いたら、医学部を目指す人もいなくなって医者という職業もなくなります。

仏教にしてもインド哲学にしても、表面的な解釈をしてしまうと、人生を台無しにしてしまいます。これはまた、後日、四諦に関して書くときに説明します。

 

さて、十二縁起は今まで解明されてきませんでした。

十二縁起は難解中の難解です。

 

無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死

これが十二縁起です。

この中で

名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有

は、比較的わかりやすいのです。

もちろん、この部分にも実に多くの解釈があります。

しかし、少なくとも、私には、この部分は流れとして非常にわかりやすいのです。

 

名色というのは、名=精神的要素 色=物質的要素 のことで

五蘊でいえば、名=受・想・行・識  色=色  です。

五蘊(物質的な要素と精神的な要素)が集まって形成されたもので

個体を表わします。

肉体(色)と、感受作用(受)、表象作用(想)、行(意志作用)、識(識別作用)が仮合して個体となったものです。

 

もし、名色を個体と解釈するならば、個体が出来る前、つまり五蘊が集まって形成される前に、識と行があることになります。

とすると、識は結生識(精子と卵子が結合したときに生じる意識)という解釈はあり得ますが(正解とは言っていません)、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識ではないはずです。個体が出来る前だからです。

行も、身口意の行為という解釈が一般的ですが、これも個体の出来る前に身口意があるわけはなく、成り立ちません。それで、無明⇒行 を前世の無明と行為と解釈することがあります。

無明⇒行 が前世。

識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有 が今世。

生⇒老死 が来世。

というような解釈があり、これが最も簡単ですっきりわかるのですが、

しかし、私はそう解釈するべきではないと強く思います。

なぜなら、前世の無明や行為とするならば、今世のいま、滅することができないからです。

 

十二縁起は、仏陀が成道したときに繰り返し観じた理法です。

これによって、すべての疑念を消滅し、縁(苦の原因)の滅に至った最重要な理法です。

十二縁起は、それを観じて、苦の滅、縁の滅、無明の滅に至るものでなければなりません。

そのためには絶対にごまかしてはいけないのです。

それゆえに、十二縁起は、今まで完全に解明した人がいないほど難解なのです。