十二縁起の根本

有尋有伺 (49.104.35.15)  

ショーシャンク様 さっそくお返事ありがとうございます!
私も中村元先生の涅槃経は持っていますので、 そこでも重要視なされていることは存じ上げています。
やはり直接対話させて頂けると、私の知見も培われていくのを感じ、本当に嬉しく思います。
同意も反論も、どちらのご回答でも成長に繋がり嬉しい所存です。
こういう風に真に有意義な対話ができる機会はそう多いことではありません。
本当にありがとうございます。
念のため申し上げますと、 ショーシャンク様からすぐにレスポンス頂けていますが ここ数日はたまたま合間にコメントできる時間を見つけたから コメントさせて頂いているだけで、 決してお返事を催促している意図は全くございません。
なのでどうか気が向いた時にでも、ご負担なくお返事頂けたら幸いです。
 
さて、この記事では 〈無明が起こる前から執着が潜在していては、無明を滅してもまた潜在した執着によって苦が起こることになります。 それでは、仏教の根幹が崩れることになると思います。〉 とご指摘頂き、この点だけ争点となっているわけなのですが、 実は増支部に無明の前もあるという経があるのです。
 
南伝大蔵経と春秋社に掲載されているのですが、 テーラワーダの人が訳されているものがネット上にありますので、そちらを引用させて頂きます。
増支部10集7双品61無明(PTS AN V.113- 南伝22下1-)
 
 
1 比丘たちよ、無明の最初は「これより前に無明はなかった、その後に無明が生じた」というふうに知られるべきではない。  
比丘たちよ、(私は)このように説く。
しかし、「これに縁って無明がある」というふうには知られるべきである、と。
 
比丘たちよ、また私は、無明に食(栄養)があり、食あらずということはないと説く。
 何を無明の食とするのか?  
(それは)五蓋であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、五蓋に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を五蓋の食とするのか?  
三(身口意)悪行であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、三悪行に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を三悪行の食とするのか?  
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の非防護であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、五根の非防護に食があり、食あらずということはないと説く。
 何を六根の非防護の食とするのか?  
不正念不正知であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、不正念不正知に食があり、食あらずということはないと説く。
 何を不正念不正知の食とするのか?  
非如理作意であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、非如理作意に食があり、食あらずということはないと説く。
 何を非如理作意の食とするのか?  
信なきことであると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、信なきことに食があり、食あらずということはないと説く。
 何を信なきことの食とするのか?  
邪法を聞くことであると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、邪法を聞くことに食があり、食あらずということはないと説く。  
何を邪法を聞くことの食とするのか?
悪人(正しくない指導者)に親しむことであると説く。
 
 
2 比丘たちよ、このように悪人に親しむことを成就すると邪法を聞くことを成就し、邪法を聞くことを成就するなら信なきことを成就し、信なきことを成就するなら非如理作意を成就し、非如理作意を成就するなら不正念不正知を成就し、不正念不正知を成就するなら六根の非防護を成就し、六根の非防護を成就するなら三悪行を成就し、三悪行を具せば五蓋を成就し、五蓋を成就するなら無明を成就する。  
 
このように、この無明に食があって[無明を]成就する。
 
 
3 比丘たちよ、たとえば山上に大いに雨が降り、雷が鳴るとき、水は低きに流れて展転して山岳渓谷に満ちる。
山岳渓谷に満ちて小さな池に満ちる。
小さな池に満ちて大きな池に満ちる。
大きな池に満ちて小さな河に満ちる。
小さな河に満ちて大河に満ちる。
大河に満ちて大海に満ちる。
このように、この大海に食があって[大海を]満たす。  
 
比丘たちよ、このように悪人に親しむことを成就するなら邪法を聞くことを成就し、間違った教えを聞くことを成就するなら不信を成就し、不信を成就するなら非如理作意を成就し、非如理作意を成就するなら不正念不正知を成就し、不正念不正知を成就するなら六根の非防護を成就し、六根の非防護を成就するなら三悪行を成就し、三悪行を成就するなら五蓋を成就し、五蓋を成就するなら無明を成就する。  
 
このように、この無明に食があって[無明を]成就する。
 
 
4 比丘たちよ、また私は、明解脱に食(栄養)があり、食あらずということはないと説く。  
何を明解脱の食とするのか?
(それは)七覚支であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、七覚支に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を七覚支の食とするのか?  
四念処であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、四念処に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を四念処の食とするのか?  
三(身口意)善行(妙行)であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、三善行に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を三善行の食とするのか?  
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の防護であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、六根の防護に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を六根の防護の食とするのか?  
正念正知であると説く。
 
比丘たちよ、また私は、正念正知に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を正念正知の食とするのか?  
如理作意であると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、如理作意に食があり、食あらずということはないと説く。  
何を如理作意の食とするのか?  
信あることと説く。  
 
比丘たちよ、また私は、信あることに食があり、食あらずということはないと説く。
 何を信の食とするのか?  
正法を聞くことであると説く。  
 
比丘たちよ、また私は、正法を聞くことに食があり、食あらずということはないと説く。  
何を正法を聞くことの食とするのか?  
善人(正しい指導者)に親しむことであると説く。
 
5 比丘たちよ、このように善人に親しむことを成就するなら正法を聞くことを成就し、正法を聞くことを成就するなら信あることを成就し、信あることを成就するなら如理作意を成就し、如理作意を成就するなら正念正知を成就し、正念正知を成就するなら六根の防護を具し、六根の防護を成就するなら三善行を成就し、三善行を成就するなら四念処を成就し、四念処を成就するなら七覚支を成就し、七覚支を成就するなら明解脱を成就する。  
 
このように、この明解脱に食があって[明解脱を]成就する。
 
6 比丘たちよ、たとえば山上に大いに雨が降り、雷が鳴るとき、水は低きに流れて展転して山岳渓谷に満ちる。
山岳渓谷に満ちて小さな池に満ちる。
小さな池に満ちて大きな池に満ちる。
大きな池に満ちて小さな河に満ちる。
小さな河に満ちて大河に満ちる。
大河に満ちて大海に満ちる。
このように、この大海に食があって[大海を]満たす。  
 
比丘たちよ、このように善人に親しむことを成就するなら正法を聞くことを成就し、正法を聞くことを成就するなら信あることを成就し、信あることを成就するなら如理作意を成就し、如理作意を成就するなら正念正知を成就し、正念正知を成就するなら六根の防護を成就し、六根の防護を成就するなら三善行を成就し、三善行を成就するなら四念処を成就し、四念処を成就するなら七覚支を成就し、七覚支を成就するなら明解脱を成就する。  このように、この明解脱に食があって[明解脱を]成就する。
 
 
 
 
この経典を簡潔にまとめると、 無明は 無明 ← 五蓋 ←(身・苦・意の)三悪行 ← 六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の非防護 ← 不正念不正知 ← 非如理作意 ← 疑(信なきこと) ← 邪法を聞くこと ← 悪人(正しくない指導者)に親しむこ と の流れで生起することとなっており、 それはまるで山に降った雨がから海まで流れ着くまでの流れのように、 渇愛が増えることを続けていたら、エンドレスに渇愛は悪の作用(渇愛が増える行動)から食(渇愛の原動力となる心のエネルギー)がまるでガソリンスタンドで定期的に補充されたように、 常にレギュラー満タンな形で渇愛の流れが循環していく。
しかし、四聖諦や七覚支や四念処といった善の作用(渇愛を減る行動、必ずしも世間道徳とイコールではないです)から食がまるでガソリンスタンドでレギュラー満タンな形で循環し、 そして解脱することであらゆる欲の世界から解放される。
そんな感じですね、 なぜ行が生じるのかというのは、 渇愛が存続するには食という心のエネルギーが必要なので、 欲の衝動を出すことによって渇愛というガソリンを供給しないとと普通の人は無意識レベルで思い込まされているからなのです。
その食とはきれいとか、欲しいとか、美しいとかのような、 欲による感情なのです。
しかし常に身体の感官を防護していれば、ガソリンを補充できなくなるので、次第に渇愛が減り続け、消えていくわけなのです。
それが「戒」でございまして、 パーリ律は、誰でも実践できるよう、1番下のレベルに合わせておりますので、  集団活動の約束みたいな感じになっているのですが、 その食を防ぐための、誰もが実践すべき本格的な修行としては、 中部経典152経になるわけなのです。
 
つまり、パーリ律は任意でやれば良いものですが、 感官の防護は必須科目となるのです。 ※食は「4つの食」として仏教用語があります。

 

 

 

有尋有伺さん、こんばんは。

ヤフー掲示板の時に投稿して、このブログの初めの方に格納している文でも言っていることですが、原始仏典でも、遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われています。

すべての仏教経典を同列に考えると、同じ言葉であっても、言っていることが矛盾することはよくあります。

例えば、『一人で修行しなさい』という言葉があります。しかし、『よき修行仲間と修行しなさい』という言葉もあります。それもだんだん強調されてきて『よき仲間が出来ることが悟りへの道の大半なのだ』というような極端に仲間と修行することを勧める文言もあります。

最古層の仏典では『一人で修行すること』に重点が置かれています。それがサンガが発展した後のより新しい仏典では、さかんに『仲間と修行すること』を強調し始めます。

このように、同じ原始仏典でも、矛盾に見えることが多くあります。

前にも書いているのですが、そのような場合は、私はより古層の仏典を重視します。

私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか、をテーマに探求していますので、仏陀の肉声に迫ることを優先しているのです。

 

最古層の仏典は、スッタニパータの第4章第5章と、相応部経典の詩句を伴った集、だと思います。

それから、他の相応部経典やダンマパダなどが続きます。

以前の『仏教についてのひとりごと 134』ではこう書いています。

 

※※※

確かめた結果、増谷文雄もやはり次のようなことを書いています。

①小部経典の中の『スッタニパータ』『ダンマパダ』は原初的で、有力な資料とされる。一つにはそれらが偈(韻文)を中心に成っているからだ。韻文は古形を保存するのに適している。

②『スッタニパータ』『ダンマパダ』以外で考えると、
 相応部経典⇒中部経典⇒長部経典⇒増支部経典 の順で出来たと考えられる。
 漢訳の阿含経で言えば
 雑阿含経⇒中阿含経⇒長阿含経⇒増一阿含経 の順番で、雑阿含経が一番古い。

③増一阿含経は、最も遅く出来た経典で、大衆部の所属と想定され大乗仏教の影響がみられる。

④遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われていると想定される。

⑤故に、雑阿含経より中阿含経、中阿含経より長阿含経、長阿含経より増一阿含経の方が、変化や付加が多大になっている。

⑥しかし、古層である雑阿含経でも、成立時期はバラバラであり、変化、付加が大きいものもある。

※※※

 

仏陀の肉声に迫り、仏陀の真意を解き明かしたいと念願している私が、増支部経典などをあまり重要視していないのは上記のような理由があります。

 

 

それに、挙げられていた増支部経典は、『正しくない指導者に親しみ、邪法を聞く』ことで無明が増大する、という一般的な事実を説いているだけであり、仏陀が、苦の根本原因を探って突き詰めた十二縁起と関連づけられるものではないと考えます。

無明という言葉が使われているだけで、十二縁起とは全く関係のない言説ではないでしょうか。

要は、邪法を聞くと無明が増大する、七覚支を修行して悟りに達しなさい、と言ってるだけのように思えます。

 

もし、あなたが、『正しくない指導者に親しみ、邪法を聞く』ことを縁として無明が生じるということを、十二縁起と関連づけるとすれば、十二縁起とはあなたにとってどのような解釈のものなのでしょう。教えてください。

 

正しくない指導者に親しむ⇒邪法を聞く⇒不信⇒非如理作意⇒不正念不正知⇒六根の非防護⇒三悪行⇒五蓋⇒無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死

と連鎖させることに、なにか意味があるのでしょうか。

 

前回にも書きましたが、十二縁起で苦の根本原因は無明と喝破されたのであり、それ故に無明を滅すれば苦を滅することができるというのが十二縁起の根本です。その前提が崩れると仏教の根本から崩れてしまいます。

 

どうも、私の十二縁起の解釈とは全く違うことを思っておられるようですので、あなたの十二縁起の解釈を詳しく教えていただけないでしょうか。