現代の仏教では、仏教学者の中でも、輪廻転生がないという人は非常に多いです。
特に今の日本においては、輪廻がないという仏教者の方が圧倒的でしょう。
なぜかといえば、科学的に証明されてないからです。
死後の世界もそうです。
しかし、ここにきてはっきりとわかったことがあります。
歴史上の仏陀の真意がわかってくれば、『輪廻転生は絶対にある』と言い切れます。
十二縁起は、無明⇒行⇒識 から始まりますが、
この〈行〉=Saṅkhāra が意味するものがわかってくると、仏陀の真意が見えてきます。
この〈行〉には次の意味があります。
1、条件付けられ形成されたもの=現象
2、潜在的形成力
3、意志作用
4、身・口・意の行為(業=kammaと同義)
このうち、2と3と4は、全く違う意味のように見えますが、十二縁起の〈行〉は、この2と3と4を包含するような言葉です。
2も3も4も、方向付けられた想いです。
現象させるべく方向付けされています。
無明からこの〈行〉が働き出します。
この 行=Saṅkhāra によって、身体や環境のすべてが形成され、行=Saṅkhāraのままに展開していくのです。
いまも瞬瞬刻刻、〈行〉=Saṅkhāraに従って、現象が形作られつつあります。
そして、無明⇒行 が滅しない限り、〈私という中心〉は、個体(身体)を作り続けます。
五蘊を集め、個体を形成し、その個体は変滅していきますが、〈行〉=Saṅkhāraの潜在的形成力は休むことなく五蘊を集め個体を形成していき、〈行〉=Saṅkhāraのままに環境が展開していきます。
仏陀はそれを四禅の後の宿住智、天眼智によってありありと観たのです。
仏陀の真意の核心はここにあります。
故に、
不善の法の捨断⇒五蓋の捨離⇒喜と軽安⇒四禅定⇒三明⇒解脱
これが繰り返し繰り返し経典に出てくるのです。
いまの日本の仏教学者たちのほとんどが、仏教を唯物論的に解釈しています。
輪廻転生を否定する人が圧倒的です。
縁起も物理現象の因果関係としています。
どのような存在も物理的に様々な原因によって生じているもの、生かされているものだから、自分という確固たる実体はない、我はない、無我である、というわけです。
私たちが生かされているのは、他のすべての存在による、たとえば、農家の人がお米を作り、運送会社の人が運搬し、お店の人が売り、自分の口に届いている、そのお米も空気や水や土という存在があってできたもので、このように自分たちが生きていることは無数の存在によってあることで、それを縁起という・・・
このような俗説を日本の仏教では『縁起の法』と解説しています。
全く違います。
歴史上の仏陀が、このような縁起の説き方をしたことなど一度もありません。
日本の仏教学者や仏教者たちは、輪廻転生は、釈尊が道徳を説くための方便として説いたファンタジーと考えています。
しかし、断じてそうではありません。
〈行〉=Saṅkhāraが、すべてを、身体や環境のすべてを作り上げていっているという仏陀の真意がわかってくれば、輪廻転生はおとぎ話ではないことが見えてくるはずです。