慧解脱、心解脱

  [No.21935] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/22(Tue) 16:14:52


> > それを渡れば別の河が待っているようなことは思っていません。
> > ただし、向こう岸に渡っても、肉体があり感覚がある限り、激流に巻き込まれる可能性はあります。
>
> なるほど、そこを心配されているのですね。
> 初期仏教の考え方に近いのかな。

心配しているわけではありません。
感覚⇒記憶⇒感覚⇒思考⇒連想 と言う流れを見ると感覚を持つ限り、激流に巻き込まれる可能性はいつもあるという事実を言っています。


> そうですか。。ゴ-ディカ尊者ですよね。
> かれは心解脱で覚った人ですよね。
> 心解脱の場合、それはそうかもしれませんね。
> 身体と心はくっついてますから、ヴィパッサナ-で行くとそうなるのかもしれません。
> だから、慧解脱というのもあります。
> 禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。


禅は慧解脱ではないと思います。心解脱でしょう。
黙照にしても公案にしても無思考の禅定に向かわせる方法ですから。
慧解脱は真理を洞察することによってしかできないと思っています。


> 「理法」と「法」の使いわけで区別しているのですね。
> わたしは、いつも、なんとなくおもしろいなあと思っているのですが、こういう、ブッダのことばは、そもそも整理されて語られているのもあれば、未整理のまま弟子に与えられるのもあります。
> それでも、ちゃんと数で数えて憶えやすくまとめやすくして、たちまち弟子たちが整頓していくさまは、本当に興味深いです。
> ブッダ自身が数えてまとめたものは、四聖諦、四念処、七覚支のように、たちまち整理され、記憶されていきます。便利なアイテムといった感じですよね。
> でも、この便利アイテムも、智慧を用いて自分で検討しながら実践しないと身につかない、という側面があって、なかなか難しいものです。
> この辺を、わたしはいつも注意しています。つまり、暗記のことばだけにならないように、と。

これはその通りです。
仏教は決められたフレ-ズが多く、wikiでその言葉を調べただけでわかった気になる人がいかに多いか。そういう人はヤフ-掲示板の東哲板には非常に多かったです。
wikiや解説書でなく仏典を直接読んでいけば、たとえば、七覚支にしても、仏陀が繰り返し繰り返し説いていた重要な法をまとめていったことがわかります。
とすると、一語一語の背景や奥深さがわかってきます。
また、その一語一語の正確な意味がわかってきます。
wikiでわかった気になるのは大変危険です。全く違う意味であることが非常に多いからです。

>
> > 筏の喩えは、喩えとして説かれた仏陀の教え(法)と思っていますよ。
> > そして、仏陀が語ったとおり、『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』という教えだと思っています。
> > 向こう岸に渡っていないときのことではありません。
>
> 正直にいいますと、実は、わたしも、ずっとそう思って来ました。
> それと関連して、「諸々の法を捨てよ、いわんや非法においておや」と受けとって来たのです。ここは、『楞伽経』にもあったことばです。
> 実際、今回「蛇喩経」の中に、この筏の喩えがあることを知って、また、「蛇の喩え」の直後におかれているのを知って、よく読む機会をえました。どちらの喩えもよく知っていると思っていたのですが、両方合わせて読んでみると、また違った印象をもったのです。



読み返してみて、アリッタ比丘がどのような間違いをしたのかも鍵になると思いました。



> > 私の想像ですが、先生が、筏の喩えを私からすると拡大解釈しているように見えるのは、
> > たぶん、筏を仏陀の言葉の数々だと捉えており、龍樹の教えの『言葉にとらわれるな』『戯論寂滅』の意味を筏の喩えに投影されているのだと思います。
>
> それは、まったく違っています。おっしゃるようなところには、龍樹は全然関係ありません。



そうですか。失礼いたしました。



> 「蛇喩経」の全体から得たものです。
> よく読むと、ずれがあると思いませんか。
> 【筏の喩え】の意味
> 『向こう岸に渡ったら筏は捨てなさい』
> また、
> 「諸々の法を捨てよ、非法においておや」
> こういう二つの教えが、「筏のたとえ」の中にあるとしたら、何か変ですよね。
> 向こう岸に渡ったら、非法は捨てられているはずなのです。だったら、「いわんや非法においておや」は、まったく無駄なことばです。
> 非法を捨てて悟ったから、今度は、正しいブッダの法も捨てるんでしょ、わかってるって、
> といいたくなりますが、そうは書いていないのです。


もう一度、読み返してみました。
蛇の喩えも筏の喩えも『渡るためであって、捉えるためではない』ことを言うための喩えであることは確かのようです。
法を学ぶ目的の重要性を説いています。
真摯に涅槃を求め、向こう岸に達するために学ぶ者たちは、法の意味を慧によって考察する。
しかし、愚かな者は、経典を、他者を非難するために学ぶ、とあります。

蛇の喩えも筏の喩えもこのことを第一に言いたくて説いたようです。
『渡るため』というのは、真摯に涅槃を求め、解脱に到達するために、ということです。
『捉えるため』というのは、経典の教えを自慢のため優越感のため、上から目線で他者を否定するために、誤って把握する、という意味です。
そのために、蛇を胴体か尾のところで捕まえることになる、と言います。
この喩えも巧みで、慧によって蛇の首を捕まえる者と誤って胴体や尾のところを捕まえる者とを対比してます。
経典を学んでも、慧のある者は、その本質、その要点、その核心を見抜きます。まさしく蛇の首を捕まえます。
しかし、他者を非難し否定し優越感に浸るために経典を把握する者は、どうでもいい言葉の端々を捕まえて鬼の首を取ったように非難します。蛇の尾をつかむということです。

アリッタ比丘は、『在家の奴は、五種妙楽を受けながら預流者にも一来果にも不還果にもなっている。それなら女性を見ても触ってもいいはずだ。それらのことは障害にならずいいはずだ。』というようなことを自分で結論づけ、仲間たちにもそう説いて回っていたようです。
明らかに非法、悪法です。
その非法を自信満々で、仲間たちに上から目線で優越感に浸りながら説いていたのでしょう。
『力により執着によって固持し、主張した』とあります。

これが、この2つの喩えの背景です。

この2つの喩えを説いた後に、仏陀はこう言います。

『このように私は筏に喩えられる法を説きますが、それは渡るためであって、捉えるためではありません。比丘たちよ、そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。ましてや、悪法についてはなおさらのことです。』

それから五蘊非我が説かれます。

つまり、最終的には、仏陀の諸法も五蘊非我として捨てていくものだということですね。

アリッタ比丘のように悪法を捉え捕まえ執着し自我としてはいけないことはもちろんだけれども
仏陀の諸法であっても、捉え捕まえ執着し自我として自慢の種とし上から目線で他者の非難のために使ってはならず五蘊非我として捨てていきなさい、ということと感じました。



> 「なぜ、六度覚って退転するのか、ありえないだろ」
> というのが、実は!わたしの思いです。
> つらつら原因を探ってみますと、おそらくですが、
> 「いわんや非法においておや」を見失ったのではないか、というのが、わたしのにらんでいるところです。

これはどうでしょう。
慧解脱であっても、肉体を持ち感覚がある以上、退転はあり得ると思いますが。
それほど激流の力はすごく、万力に喩えられる力です。
ゴ-ディカがアリッタのように非法にとらわれたとは思えませんが。


> さきに、『牛過窓櫺』のお話しもあげていただきましたが、しっぽだけが窓の外を通っていかなかったのですよね。
> あの状態がゴ-ディカさんの状態かもしれません。
> だから、
> むりやり尻尾ひっちぎったな、っていう感じです。ゴ-ディカ比丘は。

『牛過窓櫺』は禅の公案のなかでも最も難しい公案の一つです。
この『牛の尻尾』の正体やいかに・・・と言ったところです。
長くなりそうなのでいったん切ります。

 

 

  [No.21940] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/23(Wed) 06:40:07



> 感覚を手なずけているという事実(?)があれば、そう心配することもないような気がします。

ずいぶん、簡単ですね。
人間が激流に巻き込まれるのは、五蘊を非我と見ることができないからです。
もちろん、瞑想の時に、五蘊非我を観ずるのはそれほど難しいことではありません。
しかし、日常生活ではそうではありません。
この感覚の中心、思考の中心、記憶の束を『私』と認識しないと、社会生活などできないからです。
自分の名前を呼ばれて、『それは私ではない』と考えて返事をしなければあらゆる業務が滞ります。
瞑想の時ではなく、社会生活しているときには、常に、『私という中心』が必要になってきます。
そしてそれを中心に利益を守ることもしなければいけません。
他社と自社の利益が相反すれば、自社優先に行動し、結果他社に損害を与えることもあるでしょう。

五蘊非我は観念では簡単ですが、社会生活を踏まえると、困難を極めます。
ですから社会生活をすべて放棄した出家を仏陀はしたし勧めてもいるのでしょう。
しかし、社会生活をしなくても、五官があり感覚があって、肉体として生活していかなくてはいけませんから
必ず『私』と『私以外』との認識が必要となります。
出家であっても、他の人が受けた布施を勝手に自分が食べていいわけではありません。
どうしても所有感が出てきます。『私のもの』感です。

肉体で生活している限り、『私という感覚』は必要となるので、いつでも激流に巻き込まれる可能性はあります。
だから、有余涅槃と無余涅槃で、完全なのは無余涅槃ということでしょう。


> たとえば、ヨ-ガ学派に、制感(プラティヤ-ハ-ラ)という段階があって、感覚器官を制御することを教えます。また、それよりもずっと前になりますが、ブッダも、亀が甲羅に四肢を引っ込め危険を避けるように、そのように感覚器官を引っ込めて制御しなさいと教えます。
> 感覚器官を制御する前には、呼吸を意識してそちらに集中するというのも、有効な方法です。

もちろん、ゴ-ディカは感官制御は当然していたと思います。


> ゴ-ディカ比丘は、アリッタ比丘のようには非法にとらわれたのではないかもしれません。
> 五蘊非我も達成できたのかもしれません。その点では、アリッタ比丘とは比べものにならないというべきでしょう。
>
> ですが、「五蘊非我を達成した」と思っているなら、まだとらわれています。
> 「諸法を捨てよ、いわんや非法においておや」は、ここで効いてきますね。
>
> 「五蘊非我を達成した」という知見は、この五蘊非我という法は、わたしのものだという思いが残っているということになるでしょう。
> ブッダの法である五蘊非我をわたしのものとした(=達成した)、という思いです。
>
> 完全に法を達成したときには、法を達成したという思いもなく、ただ比丘であれば、「解脱した。二度とこの状態に戻ることはない」と知るだけです。
> つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。
>
> 完全に覚った後は、法にこだわることはなくなるわけですが、こだわらないこともなくなるのです。
> 『スッタニパ-タ』には、このような聖者の境地を、こんな表現で表しています。
>
> 811. (第六経第8偈)
> 聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
> 蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
> 812. (第六経第9偈)
> 蓮の葉の上のある水滴のように、また、蓮華の上にある水がしみ込まないように、同じように、聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは、考えた諸々のことに染めるめられることはありません。
>
> こういう状態に至ったわけではなかったということだろうと思います。
> 「いわんや非法においておや」の一語をおろそかにしたのではないかと思います。
> 激流に引きずられてしまう万力のような力は、「非我」「無我」を完結しきれていない、というところからくるのではないかと思います。


確かにゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、と考えるのであればすっきりします。

『牛過窓櫺』の牛の尻尾が通り過ぎないのは駄目なんだ、捉われずに通り過ぎればいいんだ、と考えるようなものです。

しかしながら、ことはそう単純ではありません。
ゴ-ディカの最後を仏陀は認めているからです。
仏陀は悪魔の言うことを退け、ゴ-ディカが涅槃に至ったことを称賛しています。

ゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、とするのであれば、涅槃に至ったということはあり得ないことになります。

『牛過窓櫺』の牛の尻尾も、『過ぎ去れば抗塹に堕ち』なのです。
過ぎ去ってはいけないのです。

 

 

 

  [No.21943] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/23(Wed) 10:36:05


> > 自分の名前を呼ばれて、『それは私ではない』と考えて返事をしなければあらゆる業務が滞ります。
> > 瞑想の時ではなく、社会生活しているときには、常に、『私という中心』が必要になってきます。
>
> ちょっと待ってくださいね。こんな風に考えてみたらどうでしょうか。
>
> 行いには三つあります。身行・口行・心行です。
> 「わたしがやります」とか
> 「○○さん」と呼ばれて「はい」と返事をするのは、口の行いです。ことばの使い方です。
> 心の中の思いは心行ですが、日常生活では、心行が口行に伴うこともあれば、口行だけのこともあります。心にもないお世辞などは、心の行いはないが口の行いはある、という例かもしれません。


ここは重要なところですが、心行が伴わない口行というのが存在するでしょうか。
私はあり得ないと思っているのです。
心にもないお世辞を言うときは、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という心行があります。そういう想いがまずあります。
もし心行が伴わない口行があるとすれば、単純な言葉を惰性で繰り返す時、たとえば、空念仏を口で唱えながら全く別のことを考えている、ということくらいですか。
日常生活の人間関係での会話の中で、心行を伴わない口行はないと思いますが。誰かとの会話の中でいきなり空念仏唱える人はいないでしょうから。



> しかし、破綻なく社会生活がおくれているのは、いつもいつも「わたし」を意識しているとばかりは言えないからではないでしょうか。
> 仕事をしている時、大半「わたし」は消えていて、仕事のことばかり考えていたりします。
> ときどき『わたしという中心』が意識されるかもしれませんが、しょっちゅうではありません。叱責されたときくらいでしょうか。
> こういう状態を観察するなら、「言語に気をつけよう」、「心に思うことに気をつけよう」としていくだけで、感覚や感情にもて遊ばれなくなります。


確かにそれはそうですね。
その通りだと思います。


> > 出家であっても、他の人が受けた布施を勝手に自分が食べていいわけではありません。
> > どうしても所有感が出てきます。『私のもの』感です。
>
> いや、違います。自分のものだから食べるのではありません。
> (他により)与えられたものだから、食べてもよいのです。与えられないものを(自分のものとして)取ってはならない、というのが、不偸盗の戒ですが、これは、「自分のもの」を保護する教えととらない方がよいと思います。

そうなのですが、やはり『私に与えられたものだから私が食べてよいのだ。』と考えてしまうと、その食べ物を横取りされると厭な気になる、つまり『私のもの』感がどうしても生じてしまうことになりそうです。出家したことがないのでわかりませんが。
ただ、おっしゃるように分け与えることで『わたしのもの』感は除去できそうですね。
逆の立場で、お布施をする人が、『どうしてもわたしが釈尊にお布施するんだ』『釈尊をお布施するのをわたしに譲りなさい』として争う場面がありますが。



> むしろ、「自分のもの」として抱え込まない行為により、他者と共栄共存できるのではないかと思います。自社の利益ばかり追求すると、他の人々の支持を失っていくでしょう。

現実社会には、必ず競合他社や競合店が存在します。
サ-ビスにおいて他社に勝るか、同じサ-ビスであれば他社より1円でも安く提供しなければ購買者の支持は得られません。
パイが無限に膨らんでいけばいいのですが、限られたパイで成長するにはパイの奪い合いも当然起きます。
逆に常に他社より優れようとしなければ、あっという間に人々の支持を失っていくでしょう。
どうしても、『わたし』が『わたし以外の他者』に勝とうとする心行が必要になります。


> > 肉体で生活している限り、『私という感覚』は必要となるので、いつでも激流に巻き込まれる可能性はあります。
>
> そうなってくると、たえず五蘊非我を考えていなければならないかもしれませんね。
> 色蘊は非我である、と意識しつづける必要があるのかもしれないですが、わたしは、大半「色蘊」の存在を忘れているので、いつも考えるべきだという必然性を感じません。
>
> むしろ、多くの場合、非我であり、無我でありつつ、呼ばれたら口行として返事をするということをしています。注意しなければならないのは、どういうときでしょうか。
> 強く「われ」「わがもの」が意識される場面です。
> 「おまえの責任だ」とか「おまえがやれ」とか言われる状況で、自分の責任ではないと思ったり、自分はやりたくないと思ったりする場面です。
> 強い苦しみを感じ、「なんでわたしが…」と愚痴りたくもなってきます。
> 現実生活は、実際、こんな感じではないでしょうか。
> こういうことであれば、これはこれで気をつけることにより、感覚を制御していくことが可能になります。一つのコツは、他者との相対的な関係を考えて生きることです。

これは確かにそうですね。
こころします。

> > 確かにゴ-ディカが非法に捉われ退転して自殺した、と考えるのであればすっきりします。
>
> え? いや、わたしは、そうは言っていません。


そうでしたね。
先生が『つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。』と書かれていたので、ゴ-ディカが最後(7回目)に非法にとらわれた、と書かれたと勘違いしました。


> わたしが「しっぽを引きちぎった」と述べたのは、退転しないためです。
> 退転することを恐れて、滅に入った、ということだろうと思います。

もちろん、そうですね。



> > 『牛過窓櫺』の牛の尻尾も、『過ぎ去れば抗塹に堕ち』なのです。
> > 過ぎ去ってはいけないのです。
>
> ああ、そうなんですか。
> な~る!
>
> > 811. (第六経第8偈)
> > 聖者は、あらゆるところによりどころなく、愛することもなく、愛さないこともありません。
> > 蓮の葉において水がしみ込まないように、かれにおいて悲しみやもの惜しみがしみ込むことはありません。
>
> この詩の前半が効いてきますね。中道として生きなければならない、ということでしょう。
> そこが難しかったので、入滅したのですね。
>
> 「愛することもなく愛さないこともない」ように、「わたしがあるのでもなくないのでもない」ように生きる、というのが、ゴ-ディカ比丘には難しかった、ということではないかと思います。
> これ、難しい公案なんですね。確かに、ここを実践的に生きるのは智慧がいるな、と思います。
> 菩薩っぽいですね。
> ゴ-ディカ比丘は、過ぎ去ったかも。。


先生、さすがですね。
『牛過窓櫺』の公案、わかっておられるようですね。

『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』

 

 

 

  [No.21946] Re: さすが の 立場 を さがす 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/23(Wed) 11:09:32


> > 『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』
>
> 落ちていないかな ? ( 拾っては いけない )



わかってないようですね。

過ぎ去るのは実はすごいことなのです。
回り来たるのはすごくないですが。

『落ちていないかな ? 』って何がですか?

『( 拾っては いけない )』
これで、わかってないことがはっきりします。

 

 

  [No.21948] Re:まとめ 投稿者:管理人エム  投稿日:2021/06/23(Wed) 14:39:48

ショ-シャンクさま なかなかツッコミどころが厳しいですね(笑)

たしかにそうだなと思うところがいくつかあります。

> ここは重要なところですが、心行が伴わない口行というのが存在するでしょうか。
> 私はあり得ないと思っているのです。
> 心にもないお世辞を言うときは、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という心行があります。そういう想いがまずあります。

確かに、『認識と違うことを言って相手を歓ばせたい』という気持をもって、ことばを発することはありますね。
その意図があるから、意図通りに「わたしは、そう思ってないけど、相手が喜ぶからこう言ってみる」として語るとすれば、その意図が透けて見えるとき「かれは心にもないお世辞を述べた」と言われるのですよね。
さらに、この場合、単純に相手を喜ばせたいと望む場合、もっと腹黒い意図をもっていて騙そうとする場合、違いがあります。もしかすると、お世辞ではすまなくなってうそをついたと見なされるかもしれません。

また、自分の意図を隠していても相手に見透かされている場合もあります。

> もし心行が伴わない口行があるとすれば、単純な言葉を惰性で繰り返す時、たとえば、空念仏を口で唱えながら全く別のことを考えている、ということくらいですか。
> 日常生活の人間関係での会話の中で、心行を伴わない口行はないと思いますが。誰かとの会話の中でいきなり空念仏唱える人はいないでしょうから。

ですね。
しかし、何かを語る場合、自分としては板挟みのようになって、どちらにも荷担せずただ機械のようにまた空念仏のように事実のみ語る場合もでてくるかもしれません。すごくいろいろな語り方が可能になります。


> そうなのですが、やはり『私に与えられたものだから私が食べてよいのだ。』と考えてしまうと、その食べ物を横取りされると厭な気になる、つまり『私のもの』感がどうしても生じてしまうことになりそうです。出家したことがないのでわかりませんが。

確かに出家したことがないので、わたしも何とも言えませんが、「わたしのもの」とは考えないようにと教えられるのではないかと思います。

何だったか、昔、釈尊が菩薩の頃、辟支仏が一人出て、清らかなかれが托鉢をしていると、ある家の人がたくさんの食べものをお布施したら、菩薩の釈尊が嫉妬して、相手の辟支仏のお鉢を見せてくれとと頼んで、辟支仏が見せると、それを地面にぶちまけたというお話しがあります。
そうすると辟支仏は、あなたが望むならこの食べものをあげようと思っていたのに、と言って去っていきました。その自分の行為によって、菩薩の釈尊は地獄で長いこと苦しんだとありました。お釈迦さんもいろいろあるんですね。

托鉢は、厳しい修行の一貫です。

> ただ、おっしゃるように分け与えることで『わたしのもの』感は除去できそうですね。
> 逆の立場で、お布施をする人が、『どうしてもわたしが釈尊にお布施するんだ』『釈尊をお布施するのをわたしに譲りなさい』として争う場面がありますが。

ああ、アンバパ-リ-とリッチャヴィの若者たちが争ってましたね。在家の人々だから、仕方ないところもあるのかもしれませんね。

> 現実社会には、必ず競合他社や競合店が存在します。
> サ-ビスにおいて他社に勝るか、同じサ-ビスであれば他社より1円でも安く提供しなければ購買者の支持は得られません。
> パイが無限に膨らんでいけばいいのですが、限られたパイで成長するにはパイの奪い合いも当然起きます。
> 逆に常に他社より優れようとしなければ、あっという間に人々の支持を失っていくでしょう。
> どうしても、『わたし』が『わたし以外の他者』に勝とうとする心行が必要になります。

まあ、厳しい商売の世界ではおおかたはそうかもしれませんが、長く続く商道徳のしっかりした商人は、違う考え方をもっている人もいます。顧客にも商人同士も、利益になるように、として、信用を大切にする人もいるかと思います。薄利多売より、商品の質を大事にする場合もあるかもしれません。

何にしても生き残っていくのはたいへんです。
>
>
> そうでしたね。
> 先生が『つまり、ゴ-ディカ尊者は、最後に非法にとらわれた、ということも考えられます。だから、退転してしまった、と。』と書かれていたので、ゴ-ディカが最後(7回目)に非法にとらわれた、と書かれたと勘違いしました。
>
>
> > わたしが「しっぽを引きちぎった」と述べたのは、退転しないためです。
> > 退転することを恐れて、滅に入った、ということだろうと思います。
>
> もちろん、そうですね。

ゴ-ディカ比丘は、過ぎ去ってしまって、まあ、残念です。
本人は涅槃に入るとしても、せっかくの阿羅漢がもったいなかった、という感じがします。
多くの人々の利益となりえたのに。

> 先生、さすがですね。
> 『牛過窓櫺』の公案、わかっておられるようですね。

そうなんですかね。
空の効いた仏法のようですね。

> 『過ぎ去れば抗塹に堕ち、回り来たれば却って壞る』

やはり、ここは、般若波羅蜜で行かないと難しいのかもしれませんねぇ。


 

  [No.21956] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/26(Sat) 15:29:18



> > > だから、慧解脱というのもあります。
> > > 禅の方は、おそらく慧解脱の方ではないかと思いますが、確証はありません。消去法で行くとそうなるな、と。
>
>
> > 禅は慧解脱ではないと思います。心解脱でしょう。
> > 黙照にしても公案にしても無思考の禅定に向かわせる方法ですから。
> > 慧解脱は真理を洞察することによってしかできないと思っています。
>
> う-む、このあたりも、わたしとはちょっと違う考えのようですが、この辺は、わたしもはっきりしないので、そのままお聞きしておきます。

> > 慧解脱であっても、肉体を持ち感覚がある以上、退転はあり得ると思いますが。
>
> 慧解脱については、また、別にショ-シャンクさまのお考えをお聞きすることにします。

> 蓮の葉の上のある水滴のように、また、蓮華の上にある水がしみ込まないように、同じように、聖者は、見たもの、聞いたもの、あるいは、考えた諸々のことに染めるめられることはありません。
>
>
> こういう状態に至ったわけではなかったということだろうと思います。
> 「いわんや非法においておや」の一語をおろそかにしたのではないかと思います。
>
> 激流に引きずられてしまう万力のような力は、「非我」「無我」を完結しきれていない、というところからくるのではないかと思います。
>
> 慧解脱でいくと、おそらくは、この辺のカラクリに智慧で気づけるのだと思います。智慧とは、縁起だけではなく、縁起をアレンジした推論なども使えることをさします。




終わりにしようと思っていましたが、
先生が私と考えが違うと言われた、心解脱や慧解脱について簡単に私の考えを書いて終わりにします。

心解脱と慧解脱の両方の解脱を成し遂げたのが、倶分解脱です。
『無色の解脱に身をもって触れて住みます。しかも、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』と言われます。

慧解脱は、『無色の解脱に身をもって触れずに住みます。しかし、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。』とあります。つまり、禅定による解脱の体験はなく、慧をもって煩悩が尽くされています。
煩悩が尽くされる慧は漏尽智です。
漏尽智は、四諦の法を洞察することで煩悩が滅尽することに至る智慧です。


心解脱は、禅定によって解脱することです。想受滅まで至る禅定です。


慧解脱は、四諦という仏陀の理法を洞察することによる解脱です。
ところが、禅は、黙照禅にしても公案禅にしても、四諦を瞑想することはありません。仏陀の理法を瞑想することはありません。
禅定至上主義です。
ですから、禅は心解脱だと思っています。

ゴ-ディカは心解脱まで行っても6回も退転しました。

慧解脱でも退転があるかどうかはわかりません。
しかし、禅定力がない以上、肉体や五官を持っている限り退転もあり得ると思っています。

さすがに、倶分解脱であれば退転はないかもしれませんが。このあたりは想像にしか過ぎません。

 

 

 

  [No.21845] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:pipit  投稿日:2021/06/16(Wed) 20:44:54

> スマナサ-ラのこの解釈はおかしいと思いませんか?
>
> 『このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。』
>
> kha が空、からっぽ、という意味であれば、「du」をつけることでその後の言葉の価値をなくす、否定するのであれば
> 空、からっぽの否定、となるはずです。
>
> からっぽという言葉自体、虚しい、あるいは空しいというニュアンスで使われているのですから。
>
> dukkhaを空しいと訳すのは、その点からしても、かなり無理があるように思えます。

みなさまこんにちは。

【du そんなに大事なものでない(価値のない)→kha 空っぽのもの】
という意味ではないでしょうか?

私が昔いただいた施本では、

『同様に、Dukkhaという語の「du」は「価値がない、賤しい、評価するに値しない」という前置詞です。
「kha」は「からっぽ」という意味です。
「du」という前置詞は「からっぽ」の意味を強調します。
評価にも値しないほど空っぽである、という意味のDukkhaです。
ですから「一切は苦である」ということは「一切のものは無意味で価値がなく、気にするものではない」という意味になるのです。』
(『なぜ苦は偉大なる真理なのか』A・スマナサ-ラ長老、日本テ-ラワ-ダ仏教協会施本、p34より引用)

となっていました。
ショ-シャンクさんが引用されたものから、文章を訂正されたのかもしれませんね??
似た文章の載った施本を持っていたので、投稿させていただきました。

失礼します m(_ _)m


 

  [No.21847] もし、dukkhaが空っぽという意味なら 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 21:32:04

pipitさん、こんばんは。

すみません。
またまたスマナサ-ラの悪口を言って、pipitさんに嫌な思いをさせてしまいました。

でも、施本の紹介ありがとうございます。

私の引用した文章は、
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-157/
からです。

『du』が強調の前置詞であれば、『評価に値しないほどの空っぽ』というようなものになりますね。


ところで、本当に、dukkhaが、duとkha からできていて『評価に値しないほどの空っぽ』という意味であれば、
piyehi dukkha 怨憎会苦 のdukkhaはどうなるのでしょう。

憎んでいる人と会うことは、空しいとか空っぽというようなものではないはずです。
苦しみそのものだと思います。

このように、四苦八苦のdukkhaが八苦ごとに違った意味を持たせられるのであれば、非常に不完全で不適切な言葉を仏陀は使ったことになります。
それはあり得ないので、dukkhaは苦以外の何物でもないと、私は思っています。

 

 

 

  [No.21848] Re: もし、dukkhaが空っぽという意味なら 投稿者:pipit  投稿日:2021/06/16(Wed) 21:41:09

ショ-シャンクさん、返信ありがとうございます(^人^)

私個人の今の感覚で言えば、

痛み、苦しみ、という表現はピッタリ来ます。

厭離、に至るための 感覚 になるところがあるのかな-
と、ぼんやりと 思います。


 

  [No.21849] Re: もし、dukkhaが空っぽという意味なら 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 22:00:06

pipitさん、ありがとうございます。

> 私個人の今の感覚で言えば、
> 痛み、苦しみ、という表現はピッタリ来ます。
> 厭離、に至るための 感覚 になるところがあるのかな-
> と、ぼんやりと 思います。

おっしゃる通りだと思います。
痛み、苦しみ、でないと、厭離に赴くことにはなりません。
無価値などと言う生ぬるい感覚ではないと思っています。

それでは、なぜ、そのように苦しみ、痛み、なのに、それに気づかない人が多いのか、です。

それは生まれたときから縛られた状態だからです。

『海の上のピアニスト』という映画がありました。
船の上で生まれ、ずっと船で生活してきた人の話です。
彼にとっては、その船が全世界だったのです。
陸に上がって生活するように言われた彼は拒否します。
ちょうど人間はそのようなものなんだと思います。
生まれたときから縛られているために、それが苦痛と感じないのです。

しかし、いったん、束縛が解かれ、自由に広大な世界を走り回ることができそれが本当だと気づいたときには
再び鎖で縛られたときには、物凄い苦痛を感じるはずです。激痛です。
それは空っぽとか空しいとかではないのです。
苦しみ以外の何物でもないはずです。