ある寺院による仏教史解説から 1

徳法寺という浄土真宗の寺院のホームページに、インド仏教史がわかりやすく書かれていたので一部を転載します。

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1. 中観思想 - 空思想の展開 -

「空」とは、あらゆる事物(一切諸法)は固定的な実体を有しないという大乗仏教の基本となる思想である。これを説く初期の「般若経典」は、経典の中で「空」を繰り返し強調してはいるものの、理論的な説明にまでは至っていない。この「空」を哲学的・理論的に基礎づけたのが「八宗の祖師」と仰がれているナーガールジュナ(龍樹、150年~250年頃)である。ナーガールジュナの名で伝えられている多くの論書の中でも代表的なものが「空」の理論を著した『中論』である。ここにある「中」とは、二つの対立した考え方があるとき、中間をとるということではなく、そのどちらの見解にもよらないという意味であり「中道」とも言われる。この『中論』をもとにしているのが大乗仏教の二大学派の一つである中観派である。日本には奈良時代に三論宗と成実宗として伝わったが(元興寺と大安寺を中心として学ばれた。いずれも南都七大寺の一つ。他の五か寺は東大寺・興福寺・西大寺・法隆寺・薬師寺)、平安時代に密教に吸収され現在は残っていない。
 この学派の主張は「ほんとうの意味で実在するものはなにも存在しない。あらゆるものは、見せかけだけの現象にすぎない。その真相についていえば空虚である。つまり、いかなるものもその本質を欠いているのである」というものである。「空」とは「無」ではなく、他の事物に条件づけられて起こっているということであり、是定と否定、有と無を超えた了解である。例えば「長い」という観念は「短い」という観念に「清らか」という観念は「不浄」という観念に依存して成立しているということであり、そのもの自体では成り立たないということである。このようにたがいに依存して成り立っているということを「縁起」という。「迷い」と「さとり」についても同様に了解されている。つまり、この二つも実体がなくたがいに依存しあっているものであるから「迷い」を抜け出して「さとり」に入るということはあり得ないことになる。現実の世界そのものが仏の本質であることに頷くことが「さとり」とされた。つまり、従来の仏教が現実を否定的にとらえる傾向が強かったのに対して、現実を肯定的に受け入れるという真逆の了解となっているのである。
 煩悩を捨て去るのではなく、この世界が無数の縁起によって成り立っているということを「観ずる」ことが「空」であり「仏にまみえる」ことであるというこの理論は、当時の仏教界に衝撃を与えた。この煩悩を捨てないという新しい仏教の思想は、大乗仏教の主流となるが、浄土思想、とりわけ親鸞の思想に大きな影響を与えている。 

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この解説によりますと、

「迷い」と「悟り」がたがいに依存し合って成り立っているので(縁起)、「迷い」を抜け出して「悟り」に入ることはあり得ないそうです。

 

また、『現実の世界そのものが仏の本質であることに頷くことが「さとり」とされた』とのことです。

この考えを究極まで推し進めていけば、天台本覚思想に行き着きそうな感じです。