やまびこさん、こんばんは。
大乗仏教はいま、大きな分岐点に差し掛かっていると感じます。
それは、近年、どんどん大きくなっている『大乗非仏説』にどう対処するか、問われているからです。
しかし、今のところ、大乗仏教の人たちは、小乗仏教と言われる部派仏教または原始仏教を貶すことでしか、その対処法を見つけていません。
やり玉に挙がっているのは中村元です。
大乗仏教側の中村元への個人攻撃は凄まじく、まるで、これにより大乗非仏説を吹き飛ばそうとしているかのようです。
また、文献学への憎しみも猛烈です。
文献学の発達によって、どの仏典がより古層であり、歴史上の仏陀の肉声に近いかがわかるようになったため、文献学が今までの仏教常識を破壊するものだとして、猛烈に憎んでいます。
情けない限りです。
私も、大乗仏教一辺倒の日本に生まれ育ち、学生の時などは、仏教と言えば大乗仏教であり、もちろん原始仏教があることは知っていましたがあくまでも『小乗仏教』であり、程度の低い劣った教えという観念が根強くありました。
歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを、原始仏典から探求したいと思い始めたとき、ヤフー掲示板の東洋哲学板に『仏教についてのひとりごと』というスレッドを立てました。
原始仏教を探求するというと、ここぞとばかり、大乗仏教の勝れたところを教えてやる、という人たちが群がってきました。
その中に、春間という龍樹の信奉者やミチオという浄土真宗の人がいました。
みんな、『大乗仏教が優れていることを教えてやる』という意気込みでしたが、ミチオ君は無量寿経の唯除の文も知りませんでしたし、春間さんも法華経法華経と言いながら法華経を毎日読誦することもなく、その理解も道元が引用した『唯仏与仏乃能究尽』を繰り返すばかりでした。
法華経は経典内にあるように読誦するものです。基本的に、大乗仏教は経典読誦が根本です。経典読誦もしないひとが上から目線で大乗仏教を語っていたのです。
ここではじめて言いますが、私は毎日、法華経の、
序品『退座一面』まで
方便品『十如是』まで
見宝塔品偈
如来寿量品全部
如来神力品全部
観世音菩薩普門品偈
陀羅尼品と普賢菩薩勧発品の中の陀羅尼
を必ず読誦しています。
また、般若心経や延命十句観音経を唱えることもあります。
ですから、原始仏教を探求しているからと言って、大乗仏教を全く知らないというわけではないのです。
尊崇の念は多くあります。
その上で言いますが、大乗仏教の人たちが情けないです。
中村元と文献学を貶すことでしか、大乗仏教の勝れたところを言えないのでしょうか。
本当に情けない。
大乗仏教の人たちは大乗仏教を根本から捉えなおすことが必要です。
根本とは、仏陀の真意からです。
私は、大乗仏教は仏陀の真意の復興運動と思っています。
どうして大乗仏教が興ったかを、真正面から見つめていく姿勢が大乗仏教の人たちには欠けているのです。
このままでは、大乗非仏説の大合唱の渦に飲み込まれてしまいます。
大乗仏教の人には言葉遊びするだけの人、何か深い内容がありそうに見せかけるだけの人、わからなくなると『曰く言い難し』で逃げる人がいますから、困ったものです。訳が分からないと、やまびこさんがおっしゃるようなことが起きます。
大乗仏教に革新者が出てほしいところです。