レス

高原 (126.42.33.248)    

ショーシャンクさん、こんばんわ。
法華経の論文、読みました。法華経は年代的にかなり早いのでそうだとは思います。大乗仏教と大衆部との関係については、以前は関係性を疑問視する論議が多かったのですが、今はまた「やはり大乗仏教は大衆部から生まれた」とする説の方が強くなっているそうです。
偶然と考えるには面白いのが、大衆部があったのが南インドであり、そして、その南インドは時期を同じにしてトマスがキリスト教を広めたキリスト教が盛んで信仰された地域でもあったという事実です。 龍樹とキリスト教の関係について書かれた論文があって、その論文には「龍樹がキリスト教に出会っていたことは間違いない」という記述がありました。 法華経の「私(釈迦)は死んだのではない。死んだふりをしただけだ。私はずっと生きている」という有名な経文は、そのまま「キリストの復活」だと思います。

 

高原さん、こんばんは。

部派仏教の大衆部がそのまま大乗仏教に発展したという考えは、いまは否定されていて、その後に起こった、仏塔管理者の在家の法師たちが大乗仏教を起こしたという通説も否定されているはずです。

ただ、いまは、在家が大乗仏教を興したのではなく、サンガ内の出家の一部がひそかに大乗仏典を作っていったという説が有力なのだと思います。

大乗仏典を見ると、原始仏典に精通していてそれを基にしていることがわかります。ですから、サンガ内の比丘が作ったのだろうとは思います。

しかし、大乗仏典をひそかに作っていったのは確かですが、インドでは全く広まらなかったというのはグレゴリー・ショペンの言うとおりだと思います。

5世紀までは大乗教団というものがインドにはなかったようですし、5,6世紀になってやっと現れた大乗教団らしきものもそれまで仏教が伝わっていなかった辺境の地だったということです。

ですから、龍樹が現れた後も、インドでは大乗仏教はほとんど注目されていなかったということです。

極論を言えば、大乗仏教は中国で興隆したといえるかも知れません。

第一結集の経緯を知らない中国では、文字の経典、原始仏典と大乗仏典が同時に入ってきてその経典のどれも仏陀の直説と考えられたので、大乗仏教が興隆する環境にあったと言えるでしょう。

 

キリスト教の影響に関してはわかりません。

私は浄土教に関しては、仏陀の考えとは真逆の思想で、浄土教ができるまえにインドで民衆に熱狂的に流行していたバクティや神の名前を唱えると死後よいところに生まれるという思想が、そのまま仏教に取り入れられ、その思想を元に浄土経典を作り出していったグループがいたのではないかと思っています。

龍樹は浄土教に関して非常に高い評価をしています。ある意味浄土教の祖でしょう。

 

 

コンゼという人がこう言っています。

『紀元前400年以後、バクティの運動がインドに起こり、紀元の初め頃、非常な勢力を得た。バクティとは人間の形をした尊敬すべき神々に対し、親愛を込めて個人的に帰依することである。インド民衆におけるこのバクティ的傾向は、それ以前にも長い間、仏教に影響を与え続けていたが、紀元頃、非常な勢いで仏教に流れ込んできた。』

(エドワード・コンゼ 『仏教ーその教理と展開』)

 

無量寿経の成立は、紀元1~2世紀と言われています。

インドのバクティ運動が非常な勢いで仏教に流れ込んだ結果が浄土教でしょう。