仏陀がいう空とは生滅の法

仏教の根幹を『空』『無我』『縁起』と思っている人が多いのですが、そして大乗仏教の国日本ではそのように教えられてきたのですが、歴史上の仏陀は本当にはどう説いたのでしょうか。

 

まず、最古層の仏典スッタニパータには、『空』はほとんど出てきません。

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つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。

そうすれば死を乗り超えることができるであろう。

このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。

 

この箇所くらいです。

 

さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。


それを解明するには、『ダンマパダ』の

【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。

 ほとんど同じことを説いているからです。

 

同じダンマパダに、【この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであるとさとったならば、死王の見られないところに行くであろう。】とあります。


つまり、仏陀は、泡沫やかげろうをはかないという例えで使っているのです。

つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、

【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。
非常に単純明快ですね。


『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が言ったことです。これが、仏教の根本教理とされていきました。


しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。

 

部派仏教は人空法有を説き、大乗仏教は人空法空を説いたと思う人もいます。

人に自我という実体がないのが人空。

すべての存在に実体がないのが法空。

というのが、後世の仏教理論です。

これについても、歴史上の仏陀は『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。』と言っているように、人に実体があるとかないとか、世界に実体があるとかないとか、言ったわけではないのです。

『わたしという中心である自我に固執するな。自我という中心があるという見解を破れ』

『世界は生じれば滅するはかないものだと観ぜよ。』

と言う意味のことを言ったのです。

『つねによく気をつけ』とは、私たちは肉体を持ち、感覚を持っています。その感覚の経験を常にしています。何かの感覚があれば、その感覚によって記憶の束が刺激され想念が湧いて出ます。その想念は連想となり続けます。それが激流です。

その激流にのみこまれていっている様を常に気をつけておけということです。巻き込まれているということは、記憶の束という自我から想念が湧いて出ているということです。その流れに気をつけなさいということです。

 

すべての存在または存在要素に実体があると説いたのは説一切有部です。

部派は20以上もあったと言われており、違う見解の部派も多かったのですが

大乗仏教特に龍樹は説一切有部とさかんに論戦していきました。

 

スッタニパータにほとんど『空』という言葉が出てこないことからも、仏陀が特別な意味を込めて『空』を説いたことはありませんでした。

空というのは、生じれば滅するはかないもの、というだけに過ぎません。

 

仏陀にはこういう言葉もあります。

すべてのものは『すでに生じているのだからそれを『無』と言うことはできない。必ず滅するものだからそれを『有』だと言うことはできない。』

このような誰が考えても明確なことを言っています。

目の前にあるように見えても他のすべての要素から成り立っているので実体がない、などということを言っているわけではないのです。

後世では、有と無の中道を『空』とした、となっていますが、これも仏陀の言ったことではありません。。

仏陀は、実体があるとかないとかの論議からは全く離れています。

そのような抽象的なことを論じたりはしませんでした。

非常に明快に、『生じるものは必ず滅する』ということを示したのです。

すべては縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、などということも言っていません。

生じるものは必ず滅するので苦である、そのような無常で苦であるものをわたし、わたしのもの、わたしの本体と言っていいであろうか、と言ったのです。

ですから、説一切有部も大乗仏教もそのような歴史上の仏陀が言ったことからはかけ離れています。

わたしは、後世の仏教理論など白紙にして、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを探っているので、後世の仏教理論には興味がないのです。