主催者の判断ですが

くり (112.70.98.63)  

ショーシャンクさま。こんばんは。
 
>石飛先生は、サンスクリット語もパーリ語も読めて仏教以外のことにも造詣が深く、しかもユーモアがあって気さくな人柄ですので、閲覧だけしている人の中にも、話してみたい人は数多いと思っています。
 
 
本当にそうだと思います。
とても稀な方ですよね。
お釈迦様は共に道を歩む「善友」の大切さについて語っておられますが、わたしには正にそのような方のように思います。
 
 
>その結果、非常に多くの良質なスレッドは閉鎖に追い込まれていき、後には『悪貨』しか残りませんでした。
>ですから、ヤフー掲示板は株式板を除いてすべて閉鎖されてしまったのです。
 
 
ショーシャンクさまはその凄惨な現実を直に見てこられたのですね。。伝わって参ります。
 
 
>自分の掲示板を真摯な人の集まりであり続けたいのであれば、対話もできない、対話する意思もない、主催者を貶したいだけのアラシには毅然とした態度を取るべきでしょう。
 
 
ここなのですが、石飛先生は、たとえそのように常識を欠いた態度でmanikanaに書き込まれて来た人たちがいたとしても、その人たちが仏教に関心があるというその一点で、所謂「アラシ」とはとられないように思います。
やはり、ご自身と同じように仏道を歩もうとしている「道半ばの人たち」というご認識ではないでしょうか。
つまり、その非礼な態度もある意味「自己を尋ねた一つの形」としてどこか真正面から受け止め、その奥には人としてブッダと繋がる<真剣な部分>を探り、それと向き合う形で精一杯応対しようとされているように思うのです。
その部分しか、人が前進するすべがないことを石飛先生自身が身をもって体験されているように思うからです。
書き込んだ本人たちがそれに気がつくかどうかは別としまして。
ブログに来る人はやがて去っていきます。
心に嘘のない人たちの間で交わされる真摯な対話は、当人の人たちはもちろんでしょうけど、外部から見ている者にも思わぬ大きな「宝物」を頂くことになります。
でも、石飛先生は、そういう対話が出来なかった人たちであっても、manikanaを去った時、ふと気が付けば、その手に何かしらの「お土産」を持っていたっていう状態であることを、心の底から願っておられる人のようにわたしには思うのです。

 

 

 

 

くりさん、こんばんは。

そうですね。

石飛先生はいい人なので、慈悲の心で見守っておられるのかも知れませんね。

掲示板の運用はその掲示板の主催者の意思次第なので、私がどうこう言う権限はありません。

ただ、ヤフー掲示板を見る限り、最後の最後までアラシたちは立ち去らず迷惑行為はなくなりませんでした。

 

マニカナ全体から誰かを排除すると石飛先生の意思に反するのであれば、新マジカナ道場だけは対話形式の掲示板ですから対話できない人は他の『お気楽掲示板』や『マジカナ広場』で活躍するようにしてもらって、道場は対話できる人にすることも考えられた方がいいとは思います。

 

私は『いい人』でないので、自分のブログは真摯な人限定にしたいと思っています。