一郎 (112.68.9.2)
ショーシャンクさん こんにちは、 初めまして
私は全くの仏教ド素人です ですが少しは関心があります(笑)。
そんなところからショーシャンクさんの当ページを拝見させて貰っています ありがとうございます。
その仏教ド素人が恥も捨て、なぜ書き込みしたかと云いますと私は「般若心経」が大嫌いなんです
それを聞いて頂きたく慣れない書き込みをしました(笑)
お許しくださいね。
大乗の「空」思想は理論的なものだと思いますが、般若心経の経典は「執着を断つため」の戦術的実践的なものだと解釈しています
云わば方便だと思っています。
般若心経の嫌いなところはこんなところなんです。
例えば、自動車好きの二人(AとB)の会話、
A「やっぱり高級車は素晴らしい いいなぁ 軽くスピードも上がり快適だ」
B「高級車も大衆車も同じだよ 自動車を分解すれば、そこにあるのは自動車部品のみ、そうなると その部品は走ることも出来ず速さの優劣は同じだ」
般若心経が最も云いたい【実体ではない物に執着を持ったり拘ることは無意味なこと】の説得は このAとBの会話と同じ 別の意味の空論だと強く思う次第です。
大乗の「空」理論が正しいかどうかド素人の私には解りませんが ただこんな合点いかない方便から「執着は無意味なこと」と教えられても「そらそうだ」と納得できるものではありません それどころか反感持ちますね(笑い)。
やっぱり現代人でしたら「自動車」という物の存在を前提に教えを説いてほしいですね。
そうでなければ納得される方の割合は少数で折角の教えも行き渡らず歩留まりが低い。 五蘊の和合を前提にした教えがやっぱり私には説得力を感じますね。
お釈迦さんの教えは仮和合を重きにおいて話されているように私は感じます
だから分かり易く納得できるのだと思っています。
空の説明では「空=諸法無我=縁起」と説明され、その解釈を書かれていますが。 ここからはショーシャンクさんが専門的に研究されている分野になり、ショーシャンクさんを前にして私が書くことではないことは分かっていますが ごめんなさい。
「諸法無我」ですが、お釈迦さんはそう言ってないようですね
云われたことはアートマンを否定して「無我」を言ったのみとか
それが後世の仏教徒による解釈追加で変わった。
また「縁起」にしても苦からの脱却 輪廻的な生存からの脱却の原因を滅ぼすための考察として使われたのに 今では全く違って大乗「空」の立証に用いられている。
お釈迦さんは居られたらどう思われるでしょうね
大乗の空体系に共鳴し拍手喝采されているでしょうか!。
このようなことを知るとショーシャンクさんの考察されていることは大切なことになりますね。
一郎さん、はじめまして。
私は、いま生まれたらどんなにいいだろうと思います。
私たちの時代は、大乗仏教一辺倒で、大乗以外は低い教え『小乗』とされてきました。
大乗側のあまりにも偏った見方しかできませんでした。
いまからは、歴史上の仏陀が言いたかったことを調べることができそうになってきています。
大乗仏典は、仏陀の真意を知ってから読まないと何の意味もないどころか、迷路に嵌まってしまいます。
禅の公案と同じようなものです。
白隠は若い頃、法華経を読んで『こんなたとえ話や物語ばかりでちっとも真理を書いてない。これなら講談本のほうがましだ。』と思って捨ててしまいます。
それから禅の修行をして40歳を超えて大悟した後、なにげに法華経を読んでみると、その本当の意味がわかって号泣したということです。
般若心経にしても、『空即是色』を本当に解説できる人はいません。
昔、ラジニーシの『般若心経(ハート・スートラ)』を読んだことがありますが、西洋人は、般若心経を読むと、『虚無思想で怖い』と思う人が多いようなことが書かれていました。
確かに、虚無思想そのものと思われても仕方ないほどの全否定です。
あたり一面暗闇しかない心象風景になってしまう人も多いでしょう。
実際、虚無的になってしまう人もいると思います。
しかし、本当の仏陀の真意は全く違います。
おっしゃるように、今までの仏教でありがちなのは、何でもかんでも『空』なのだから執着はするな、という説き方です。
そういう風に説教している仏教者が全く空と思ってないし、執着を離れているわけでもないのです。ただの説教言葉にすぎないのが今までの仏教なるものでした。
執着は苦である、縛られることは苦である、結は苦である、ここを本当にわかったときに、自然と離れていくのだと思います。
仏陀が説いたのは、道徳でもなく倫理でもありません。
『苦』という現実です。
そもそも、今の日本の仏教なるもので説かれていることで、人間の精神が何か変わるでしょうか。
縁起だから無我、自分の無数のものに生かされているから自分なんてない、無我だ、車はハンドルやタイヤやエンジンやいろいろな部品が組み合わさって車と名付けられただけで実体はない、それと同じく、自分も実体がない、と言われて、ああそうでした、いくら馬鹿にされても怒りはなくなりました、という人がいるでしょうか。
残念ながら大乗仏教には仏陀が残した筏がない、だからどこにも行き着かない、と私は思っています。