この『仏教についてのひとりごと』ブログの最初のほうは、ヤフー掲示板で私が立てたスレッド『仏教についてのひとりごと』での私の投稿を収納したものです。
ヤフー掲示板は、株式板を除いてすべて閉鎖されるので、その前に私の投稿をいつでも読めるようにブログかなにかに残しておいてほしいとしまとりさんが言われたことから、ブログを作る決心をしたのです。
それを見てみると、いまさかんにマニカナに投稿している芳和という人(ヤフー掲示板のときは和弘と名乗っていました)と春間さんもよく私のスレッドに投稿していたみたいです。
両人とも今と全く変わらない感じです。
春間さんも芳和(和弘)さんも、龍樹の信奉者です。
しかし、この2人のネットでの行ないを見ていると、龍樹はこの人たちの精神に何をもたらしたのだろうと疑問に思えます。
龍樹が間違っているのか、この人たちが龍樹を理解していないのか、どちらなのでしょうか。
芳和(和弘)さんの今日の投稿です。いつもながらマニカナへの罵詈雑言です。
それほどまでに嫌であれば、マニカナを読まなければいいし投稿しなければいいことです。
しかし、ヤフー掲示板の東哲板には、このようなアラシの人が多くいました。
マージャンと呼ばれていた人、和弘(芳和)と名乗っていた人、春間さん、ミチヲと呼ばれていた人、などです。
さて、その芳和(和弘)さんの投稿です。
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★ [No.19363] 迷「論理」の迷「親父ギャク」 投稿者:芳和 投稿日:2021/02/03(Wed) 10:37:48
文献学は、そもそも西洋近代の論理によるもので、対立概念が抜けない。
インド論理学もそもそもギリシャの論理学を持ち込んだもの。
だからして、自我と他我の対立概念が抜けず、相手の足をすくうことに
終止してしまう。
そこが修羅の地獄とも知れないで……悲しいではないか。
論理学というのは、空という仏界から見れば迷い世界だ。
迷いの「論理の毒」に侵されるとどうなるのか。
それは、マニカナの毒に侵され、「親父ギャク」坊主の姿を見れば分かる。
石飛論理学は、親父ギャクの論理学だ。
石飛論理学が、破綻している証拠を「親父ギャク坊主」が示している。
そして、マニカナは死に体だ。
そんな「親父ギャグ」坊主がダメにしたトピを訪れるのは、
撲殺覚悟の阿呆だけ。
「親父ギャク」坊主は不治の病。
龍樹は正しさを証明しているが、悲しいではないか。
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和弘(芳和)さんは何も変わってないですね。
わざわざ毎日おびただしい数の罵詈雑言の投稿をするようなことはやめたほうがいいですよ。
もし、そうしたいのなら、正々堂々と相手の目を見て対話するべきです。
和弘(芳和)さんも春間さんも石飛先生もみんな龍樹の研究者というか信奉者なのですから、これ違うと言うことがあれば、堂々と論戦したらいいではないですか。石飛先生の質問から逃げまくっているのは卑怯ですよ。
ヤフー掲示板時代の投稿を調べていましたら、和弘(芳和)さんとの絡み、かなり出てきました。一部を載せます。紫の文字色が和弘(芳和)さんの投稿部分です。
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卑弥呼さん、ありがとうございます。
この和弘という人は、他人のスレッドに自説を連続投稿するだけで
こちらの質問には正面から答えないので困っています。
せめて、ちゃんと質問や指摘には答える常識があれば対話が成り立つのですが
他人のスレも自説を披露する場としか考えていないのでしょう。
その自己中心性は、自ら主張している無我とは正反対なのに気がついていないようです。
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<<自分の思い通りにはならないのが苦諦でしょう。苦諦を覚っていただきたい。>>
ということは、あなたは他人に苦を与えると認識してわざと苦を与えているということですね。
無差別の殺傷犯と変わりないですね。
その自分の心の中のドロドロしたものを洞察していかないとあなたは悪い方向に行っていると思いますよ。
<<戦う只中に真理があります。戦いながら調和するものでしょう。>>
だんだん、言っていることが危ない人のようになってきていますね。
仏教の基本、仏陀の基本は「戦うな」ですけどね。
あなたの思想は危ないですよ。
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<<「平和」だけを取捨することを偏見といいまして、偏りは逆に危険なのです。>>
全くの間違いですね。
あなたは観念論の迷路に入り込んでいて、自らの心がドロドロになってしかもズタズタに引き裂かれていますね。
スッタニパータ
275 もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣のごとくであるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚れを増す。
276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行者は、ブッダの説きたもうた理法を、説明されても理解しない。
277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。
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あなたは、自分のドグマを他人のスレで披露したいという自己中心的な欲望に駆られているだけなので、自分が答えられないもの、都合の悪いものはすべて無視するのです。
自分が答えられる箇所、得意な箇所だけには勢い込んで返答するのです。
これは求道の基本的な精神ではないということです。
あなたが答えられないのは、ただ仏教学者の解説書の中から自分が気に入ったことを切り貼りして自説にしているだけだからです。
ブッダがどう言ったのか、は調べようともしないし、典拠もあやふやなものばかりです。
本当に仏陀の教えに触れたいのであれば、仏陀の言葉の理解からです。
それなしに、釈尊の精神を直接体験するなどというのは、オウムのような怪しげな者たちがいう危ない考えです。
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<<「自他不二とはこういうことだ!」と言ってのけた方がいた。>>
<<人間の分別で自他不二という、対立する者の和合ができるわけはないのである。
それができると思うのは妄想である。その方の言ってのけたことも妄想である。>>
いや。卑弥呼さんの言われたことは正しいですよ。
あなたが本当に自他不二の境地にいるのであれば、他人が迷惑がっていること、他人が苦痛と思っていることはわざわざできない、ということを言われているのです。
あなたが、いくら、自分は釈尊の無我を直接経験した、自他不二になったと言ったところで
あなたが自分の止められない承認欲求・我執から投稿し続けていることがみんなからは見え見えなのです。
裸の王様は恥ずかしいので、そろそろやめて、私のように自分のスレッドだけに細々と書き込めばいいのではないですか。
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<<仏陀を真剣に考え抜いていけば人間の思惟の限界にいたり>>
今までの仏教学者の仏陀解説書を読んだだけで「直接経験」した気になっているのがあなたですから
仏陀を真剣に考え抜いたことなどないでしょうね。
あなたは、「仏陀を考え抜いたふりをすること」はやめたほうがいい。
あなたが行なっているのは、いろいろな遍歴の末に龍樹の解説書を読んで感激し
龍樹の思想を基に、原始仏典から「二元対立を超越するような文言」を目を皿にして探し求め
無理矢理、「仏陀の言っていることと龍樹の言っていることは同じ、不二中道だ」と結論付けたことだけです。
それは何ら「歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったか」という探求ではなく
最初から龍樹の哲学という結論があって、その観念を強めるためだけにスッタニパータなどの古層の仏典を読んだに過ぎません。
それをあなたは『釈尊の直接経験』と言っているのです。
あなたには最初から結論があるので、対話して修正することもしたくないのです。
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過去の投稿を見ると、いまの芳和(和弘)さんと全く変わっていません。
これでは、龍樹をいくらしてもどこにも行き着かないと言うことではないのでしょうか。
こういう投稿もありました。いまも同じ感想です。
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春間氏と和弘氏は何から何までよく似ていますね。
人の話は聞かず人の質問には答えず自説を他人のスレッドに大量投稿。
何もかもがごちゃまぜで、自力の禅の話をしているかと思ったら他力の親鸞のことばかり言い出したり。
龍樹、道元、親鸞の教えをすべて中途半端に切り貼りしているので、曹洞宗の人から見てもまがい物だし、浄土真宗の人から見てもまがい物なのですが、本人は気がついていないようです。
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春間さんと龍樹についてやり取りしたものもありました。
本当に龍樹の文章を読めているのでしょうか。
紫の文字色が春間さんの文章です。
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<<弥陀に賜る 信心が 無明を滅します 「 仏法の大海へは 信より入る 」( 仏法の大海は信を能入とする 「 大知度論 」 )>>
龍樹の『大智度論』の言葉は『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』です。
あなたは勝手に言葉を切り取っては自分の都合のいいように解釈しているだけです。
龍樹は、入るのは信で入るが、渡るのは智がなければならない、と言っているのです。
弥陀の信心が無明を滅するなどという意味ではありません。
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<<あなたはそう切りとる>>
あなたが勝手に切り取っているのですよ。
本当は『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』なのに
『仏法の大海へは 信より入る 』だけを切り取って、
<<信心が 無明を滅します>>という結論を勝手に出している。
しかし、原文はその後に『智を能度と為す』があって、智を重要視しているのです。
あなたが自分勝手に切り貼りしているだけです。
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<<原文には 『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』とはなってはいません
鳩摩羅什 漢訳 の 翻訳文を 切り取ると「佛法大海信為能入智為能度如是義者即是信」 です 義者即是信 と 知りなさい>>
う~ん(笑)
私は龍樹には何の興味もありませんが、あなたの文を見ていると、本当に龍樹の言っていることを把握しているかどうか疑問です。
あなたは、意気揚々と『『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』とはなってはいません』と書いていますが
『佛法大海信為能入智為能度如是義者即是信』を読み下すと、『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。如是の義とは、即ち是れ信なり。』です。
『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』が一つの文です。
一つの文をあなたは『仏法の大海は、信を能入と為す』とだけ切り取ったのです。
次が『如是の義とは、即ち是れ信なり。』という一文です。
あなたのように『義者即是信』と切り取ったら意味がなくなります。
ここで龍樹が言っている『如是』とは、摩訶般若波羅蜜経の最初の『如是我聞』の『如是』を解説したものです。
『如是』が信だと言っているのです。
そして、その前の一文『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』では
仏法の大海に入るのに信をもってして、大海を渡って彼岸に至るのは智によるということを言っているのです。
あなたは龍樹の書いている意味を把握していないように思えます。
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