仏陀の真意と部派仏教

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、返信、ありがとうございました。
 
「矢」のことをお話したのは、スマナサーラがスッパニパータの解説をしていて、「怠り」の説明にぼくが得心するする所があったからです。
 
pamado(怠り)は普通の一般的な意味の怠りとは全然意味が違うと言っていて、無知なぼくは「怠り」とは、惰眠をむさぼるとか勤勉ではないとか「律」に属する言葉だと思っていました。 pamado(怠り)とは、仏教では重要な意味を持つ言葉だと言います。
人は生まれれて幸せのプログラムに沿って生活を始めます。
学校に行って勉強して就職して結婚して家庭を持ち子供を産んで育てます。
それは人が社会のプログラムに組み込まれるだけで実は幸せとは違う。
家族を養うために働き、勤勉に努力して一日睡眠時間2時間で働いて遂には大金を得て、世間の称賛を受け褒めらても、それこそがpamado(怠り)だとスマラサーラは言います。
社会に組み込まれ、家族を作り、子供を育て、プログラムが進んでいくにつれて、心配事や悩みも増えていくのに、ただ生活だけに追われ、「endlessに続いていく苦(輪廻)から抜け出そうとしない」ことがpamado(怠り)であり悪業だと言うのです。 普通に真面目に生活する人をpomado(怠り)とか悪業とか言われてはとも思いますが、煩悩や執着は(苦)輪廻を回転させる高純度の燃料となって、輪廻という乗り物に乗せて次の生苦、遠くのとんでもないかもしれない未来へ運んで行くことを思えば、この世に生きているうちに煩悩、執着、毒矢を抜こうと試行することのない人生はpamado(怠り)、悪行と言われても仕方がないかもしれません。
pamadaは「放逸」と訳され、似た意味です。
学者の佐々木閑さんは、スマラサーラほど激しくはありませんが、ブッダの仏教は、この世で生き辛い人や、生きるのが嫌になった人のために、説かれたと言いました。
病院のようなものだと例えました。
そういう意味では、心身ともに健康で元気ハツラツな人ほど、仏のお教えには無縁で届かないものかも知れません。

 

 

高原さん、こんにちは。

先に、わたしは仏教を3つの時代に分けました。

原始仏教、部派仏教、大乗仏教、です。

さらにいえば、

仏陀の真意、原始仏教、部派仏教、大乗仏教、です。

仏陀の真意は、原始仏教にもあり、部派仏教にもあり、大乗仏教にもありますが、原始仏教が仏陀の真意そのものではなく、部派仏教、大乗仏教は煩瑣な理論により仏陀の真意がねじ曲げられたと考えています。

スマナサーラは上座部仏教ですから部派仏教ですね。

部派仏教にはどうしても出家至上主義があります。

仏陀は本当にスマナサーラが言うように『社会で一生懸命働いても執着を増やすだけで輪廻を断ち切ろうとしてないから悪業だ』と言ったでしょうか。

たとえば、スッタニパータには『適宜に事をなし、忍耐強く努力するものは財を得る』とあります。また『誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ』とあり、その次に『信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら4種の徳があれば、彼は来世に至って憂えることがない』と、社会で現世的な努力をする人を肯定的に見ています。

決して社会的な努力すべてを悪業だなどとは言っていません。

そもそも、仏陀が言う『dukkha』を苦とか痛みではない、空しいとか無価値という意味、霜降り和牛は非常に美味しいけどコレステロールも多くプラスもマイナスもある、プラスマイナスゼロだ、無価値だ、そのようにすべて無価値というのをdukkhaという、などと言ってる人が仏陀の真意などわかるのか、と言いたいですね。

 

仏陀が言った『dukkha』とは、間違いなく、『苦』のことです。激痛です。

 

そこがわからない人が仏教の正統派を自認している、情けないことです。

 

佐々木閑も、この世で生きづらい人だけのために仏教があるなどというのもとんでもないことです。

仏陀の真意は、すべての人が、激流に押し流されているのです。苦の大海で溺れそうなのです。

心身とも健康で裕福で権力があっても、『苦』なのです。

そこもわからないのであれば、仏教学者など何にもなりません。

 

 

仏教学者や仏教者が仏陀の真意を失わせてしまったのです。