高原さん、こんにちは。
先に、わたしは仏教を3つの時代に分けました。
原始仏教、部派仏教、大乗仏教、です。
さらにいえば、
仏陀の真意、原始仏教、部派仏教、大乗仏教、です。
仏陀の真意は、原始仏教にもあり、部派仏教にもあり、大乗仏教にもありますが、原始仏教が仏陀の真意そのものではなく、部派仏教、大乗仏教は煩瑣な理論により仏陀の真意がねじ曲げられたと考えています。
スマナサーラは上座部仏教ですから部派仏教ですね。
部派仏教にはどうしても出家至上主義があります。
仏陀は本当にスマナサーラが言うように『社会で一生懸命働いても執着を増やすだけで輪廻を断ち切ろうとしてないから悪業だ』と言ったでしょうか。
たとえば、スッタニパータには『適宜に事をなし、忍耐強く努力するものは財を得る』とあります。また『誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ』とあり、その次に『信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら4種の徳があれば、彼は来世に至って憂えることがない』と、社会で現世的な努力をする人を肯定的に見ています。
決して社会的な努力すべてを悪業だなどとは言っていません。
そもそも、仏陀が言う『dukkha』を苦とか痛みではない、空しいとか無価値という意味、霜降り和牛は非常に美味しいけどコレステロールも多くプラスもマイナスもある、プラスマイナスゼロだ、無価値だ、そのようにすべて無価値というのをdukkhaという、などと言ってる人が仏陀の真意などわかるのか、と言いたいですね。
仏陀が言った『dukkha』とは、間違いなく、『苦』のことです。激痛です。
そこがわからない人が仏教の正統派を自認している、情けないことです。
佐々木閑も、この世で生きづらい人だけのために仏教があるなどというのもとんでもないことです。
仏陀の真意は、すべての人が、激流に押し流されているのです。苦の大海で溺れそうなのです。
心身とも健康で裕福で権力があっても、『苦』なのです。
そこもわからないのであれば、仏教学者など何にもなりません。
仏教学者や仏教者が仏陀の真意を失わせてしまったのです。