やまびこさん、こんにちは。
ご質問ありがとうございます。
とてもいいご質問だと思います。
いま、私は、大乗仏教は何故興ったのかというテーマに取り組んでいます。
結論的には、大乗仏教は仏陀の真意の復興運動であった、ということです。
なぜ、復興しなければいけなかったのか、と言いますと、
仏陀とその直弟子の時代の原始仏教が、根本分裂を経て部派仏教になってしまった過程で、灰身滅智に傾いてしまったからです。
これは仏陀の説き方でも、煩悩の滅をめざし、煩悩がなくなった後の境地については無記、つまり説かない、としました。
これにより、煩悩を滅して何にもなくなった状態を理想と考えるようになりました。
仏陀は、無記としたのですが、それが無という方向にいってしまったのです。
大乗仏教はそれに対して、煩悩や自我がなくなった後にも大いなる境地があることを示すための復興運動でした。
神霊の存在に関しても積極的に説いていきます。
神霊への祈り、「呪」が出てくるのも大乗仏教の特徴です。
あの極度に理論的哲学的な般若心経でさえ、後半いきなり「これは神呪である」として呪が説かれます。
五蘊も四諦も十二縁起も何もない、と言いながら、呪が出てくるところに大乗仏教の秘密があります。
これらのことを踏まえながら、大乗仏典はどういう人たちが作っていったのか、私の中ではかなり確信に近いものが出ました。
それで、大乗仏教に関して本を出したいと思っているのです。
ご質問に関してですが、大乗仏教は菩薩道と言われます。
これについても、いろいろな人がいろいろなことを言っていますので、わけがわからなくなっています。
菩薩道とは、いまだ救われる前から人を救う道である、とか、いまだ渡らない人が他人を渡らせる道だ、などと言う人がいます。
しかし、自分が救われてもなくて人を救うことなどできません。
私の解釈では、菩薩道とは、無量なるものに気づいていく道のことです。無量なるものとは無量心です。
四諦十二縁起で『私という中心』を洞察し、それを苦であると見極めていくのが仏陀の理法です。
そうして、『私という中心』が消滅したときに、無量なるものが現われる、これが、大乗仏教の言いたいことなのです。
その無量なるものを説き明かしたのが、膨大な大乗仏典群です。
声聞は四諦の法、縁覚が十二縁起の法、そして菩薩は六波羅密、菩薩道と言われます。
しかし、法華経では、そのように三通りあるように見えるけど、どれも三界から脱出するための方便なのだ、脱出したところに大いなるものがあるのだ、と説かれます。
菩薩道にきりがないというのは、私は思いません。
大いなるものになったとき、それを如来と言います。
菩薩というのは、本来悟りを目指す修行者という意味にしか過ぎません。
目標やゴールはあります。
それが如来の境地です。
菩薩は如来になるために修行しているという位置づけです。
法蔵菩薩は、阿弥陀如来になりました。
ただ、如来の境地は無量心なので、その働きは無量です。
それを、人を救うために、如来にならずに菩薩のまま永遠に個を持ち輪廻する、という人がいますが、あまりにも頭でこねくり回したような考えです。