人生を根底から変える法としての、四諦・十二縁起

仏陀が初転法輪のときに説かれ、その長い生涯をわたって説かれたのが四諦の法です。仏陀の教えの根幹です。

そして、仏陀が成道のときに繰り返し瞑想して苦を滅し無明を滅し解脱へと至ったのが十二縁起の法です。

 

四諦と十二縁起こそは、仏陀の悟りの根幹です。

そして、数多くの人たちを悟りへと導いた法です。

四諦と十二縁起こそは、顛倒し苦の集積へと向かっている人生を根底から変える法なのです。

 

基礎教養としてWikipediaで調べて分かった気になるのであれば、全く知らない方がいいくらいです。

仏陀の法は、仏陀が悟った時『私が悟ったこの法は、深遠で見がたく難解であり絶妙である。だから、私がこの理法を説いたとしても世の人は理解できないだろう。説いても疲労が残るだけだ。憂慮があるだけだ。』と思って、説くのをやめようとしたものです。

 

深遠で見がたく難解である理法を、表面だけの解釈でわかった気になるのは、百害あって一利ありません。

良い例が、不二一元アドヴァイタで、シャンカラは、多様性は紐を見て蛇と間違えるような錯覚としましたが、その真意を知らずに表面だけで解釈して『すべてはただ起こっているだけ』『自分がなすべきことなど何もない』として、意志や主体性を失わせて無気力な人間を量産してしまう似非アドヴァイタが生まれたように、本当に怖ろしいことになります。

 

仏教も、仏陀の真意が捻じ曲げられたために、全く役に立たないものか人間を悲観主義、あきらめに向かわせるようなものになり果てています。

 

今までの解釈などすべて捨てて、歴史上の仏陀は本当は何を言ったのか、仏陀の悟りの精髄であり多くの人を解脱へ自由へ無量へと導いた四諦・十二縁起の法とは何なのか、なぜそれが、人生を根底から変え、苦の集積へと向かう私たちの人生を180度転回させるものなのか、を探求していかなければなりません。

 

もし、四諦の法、十二縁起の法を解釈するとして、その解釈で瞑想すれば、その人を自由にしその人が無量に達することができるのであれば、その解釈は正しいのです。私の判断基準はすべてそこにあります。

逆に、その解釈では、人を自由に導けないのであれば、それは間違った解釈です。