ずいぶん前から、非常に疑問に思っていたことがあります。
それは、仏教(仏教に限らず、宗教、哲学、精神世界、スピリチュアルなど)にのめり込んでいる人の方が人格的におかしい人が多いということです。
むしろ、自分の利益ばかりを追求している人、自分の金儲けに邁進している人、事業の拡大のことばかり考えている人の方が、人格的に優れた人が多いのです。
これは、人生の中での最大のパラドックス、逆説です。
現実生活において、私の周囲には、仏教や宗教に興味のある人はほとんどいません。
私が仏教に興味があることを知っている人もほとんどいません。
そういう話題は一切しませんから。
みんな自分の金儲けに忙しい人ばかりです。
また、ネットの社会でも、株の掲示板で知った人はどの人もおかしな言動をする人はいませんでした。しかし、仏教の掲示板にはおかしな人がごまんといました。
人格を正しくするであろう仏教においてかえって人格がおかしく、自分の金儲けばかり考えている株の掲示板において性格のいい人が多いのは、大きなパラドックスです。
仏教や宗教、哲学、精神世界、スピリチュアルの何かが間違っているのです。
これらの人はよく『無我』だとか言いますが、かえってその知識によってドロドロとした我執を抱えてしまっていることがほとんどです。
これは今までの仏教が筏を持たず、どこにも行き着かないものになっているからだと思わざるを得ません。
例えば、哲学は人生を幸せにする学問だと言われます。
そうであれば、大学の哲学科を出た人は最も幸せなはずです。
しかし、現実はそうではありません。
哲学科を出た人は少し変わり者だったりしてうまく現実社会に対応できない人もいます。
禅を熱心にしたためにかえって増上慢になって社会から遊離する人もいるようです。
何が間違っているのでしょうか。
仏教といえば、誰しも、『縁起』『空』『無我』と言います。
しかし、今までの仏教なるものを全部白紙にして、古層の仏典から仏陀の真意を探ってみると全く違うものでした。
仏教には、正法、つまり正しい理法は500年しか続かない、その後は形だけ似ているけど非なるものとなる、という伝説があります。
確かに、いま、仏教の根幹とされている、『縁起』『空』『無我』は、500年後に今の理解へと変貌したものでした。
仏陀は『空』を説かなかった。スッタニパータに『空』が出てくるのはたった一度で、それも『この世を空と観じよ』という場面だけです。そして、この場合の『空』とは、生じたものは滅する、はかないものだ、という意味にしか過ぎません。
縁起によって無自性だから空だ、というような論理は原始仏典には一度も出てきません。仏陀はそのようなことは一度も言っていないのです。
『縁起』も全く違います。
仏陀が求めたのは、苦の消滅なのです。
苦の消滅のみを求め続けたのです。
そして、仏陀は苦の原因を探求していきました。
これが縁起です。
AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。
AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。
Bをなくすのには、このようなAを見つけ、Aを滅することによってBを滅することができると考えたのです。
つまり、縁起の法とは
Aがあれば苦があり、Aが生じるが故に苦が生じる。
Aがなければ苦はなく、Aが滅するが故に苦が滅する。
このようなAを発見するためのものでした。
今の縁起の解釈とは全く違います。似て非なるもの。
そう。今の仏教は仏陀の真意とは全く似て非なるものなのです。
仏陀は『無我』など説いていません。
『無常で苦なるものを、わたし、わたしのもの、わたしの本体と言っていいであろうか』と繰り返し言っています。
つまり、無常であり苦である、形成されたものは非我であると言っているのです。
その実践が四念処です。
そして仏陀は、四念処は涅槃に至る一乗道と言っています。
非我を観じることこそ、仏陀の真髄なのです。