なぜ人は生まれるか

たーぼー (126.33.158.234)    

 

>>【親の子供に対する虐待事件が多いですね。 虐待は何故起こるのでしょうか。 根源的な問題としては、人間の欠如感があります。 すべての人間は多かれ少なかれ自己重要感の欠如の感覚を抱えています。 胎内にいた時は全能感、一体感は保たれていますが 生まれた瞬間からかすかな分離感が芽生えます。 それは成長する従って増大していきます。 誰かに馬鹿にされたり強制されたり束縛されたりする都度、限定感、欠如感は大きくなっていくのです。 人間は自分の中の欠如感が痛くてたまらず、絶えず全能感を取り戻そうとします。 子供が遊びで虫を殺したり小動物をいじめたりするとき、その対象の命、運命を自分が支配している感覚になり、つかの間、全能感を取り戻します。それは偽りの感覚ですが、他に欠如感を忘れさせてくれるものがなかった場合、そのことに依存していきます。 大人になっても、自己重要感の欠如をうまくコントロールできない場合、自分より弱いものに対するいじめをして、つかの間の全能感を取り戻そうとします。 欠如感の痛みを忘れさせてくれるものに人間は依存し執着していきます。】
 
 
ショーシャンクさんお久しぶりです。 ヤフー掲示板でお世話になっていたターボーです。 お元気ですか? 全く仰っていることよく分かります。 私、ショーシャンクさんが言っていた仏陀の苦が分かりまし た。 この世が汚泥の激流であるとショーシャンクさんはよく言ってましたが、私は自分の人生を振り返るとよく分かります。 何故この世はこの様な構造になっているのでしょうか? 何故私たちはショーシャンクの刑務所に入れられなくてはいけないのでしょうか?
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
 何故この世はこの様な構造になっているのでしょうか? 何故私たちはショーシャンクの刑務所に入れられなくてはいけないのでしょうか?
人間はすべて創造の本源、創造の主体なのです。そこから一瞬たりとも離れたことはないのです。人はみないまの瞬間瞬間、絶えず創造しているのです。ただ、それに気づいている人は少ないです。
人間は生まれたくて生まれているのです。個でありたい、中心を持ちたいために、五蘊を集めて個体を形作り、それに自己同化しているのです。これを無明ともいい、渇愛、タンハーともいいます。無明と渇愛の違いは、無明は中心を持つこと、個体を持つことが苦であるということがわからないこと、渇愛は、個でありたくて仕方ない衝動、というように私は解釈しています。
個であること、個体を持つこと、肉体を持つこと、これには快楽がありますから、個体を持とうとする衝動があって生まれる、つまり生まれたくて生まれるのです。それが悪いことではありません。善いとか悪いの問題ではなく、『個体を持ちたい』『個であろう』という思いが潜在的な形成力となって、五蘊を集合させてしまうのです。そして、その仮合した五蘊の個体から五官の経験が生じ記憶が生じ思考が生じ思考者としての自我=中心が生じて限定感欠乏感になっていくのです。
善いとか悪いとかではなく、ただ、本当に悟った人から見ると、苦であるのに苦であることが分からない状態と見えるのです。
 
個体に自己同化した途端、本来の無量感から離れてしまいます。欠乏感が生じます。
そして、その欠乏感を絶えず発しているために、欠乏の現象を創造していっているのです。
いま、全身全霊で無量であることに集中しないと、激流は人を苦の集積へと流していってしまいます。
そして、その激流が分からないために、仏教は時代を経るたびに安易な方向、薄っぺらい方向に行ってしまいました。
仏陀の真意は全く失われてしまいました。
他力を頼むなどという考えは仏陀には一切ありませんでした。
 
ここ最近、仏陀の真意が本当にわかりました。
そして、大乗仏教がなぜ起きたのかもはっきりわかりました。
しかし、仏教なるものが仏陀の真意とはかけ離れたものになったこともわかりました。
 
 
 

 

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