これだけは言っておきたいこと

歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかがわかるようになってきて、愕然としたことがあります。

これだけは言っておきたいことを書いておきます。もちろん、人は自分の信じたいものしか信じませんから、これを書いたところで分かってもらえる人はごく少数でしょうけど、真剣な人であれば今は難しくても遠い将来に気がついてくれる人もいるでしょう。

結論から先に言いますと、この世には意志をなくしてしまう方向へ向かわせる考え方が蔓延しているということです。特に日本にはその傾向が非常に強いです。

無力感の方向に行く考え方、限定感を強める考え方、意志をなくしてしまう考え方、そのようなものから決然と離れ、全能感、無限感、無量感の方向に舵取りしないと、苦の集積に押し流されてしまうということです。

 

仏陀の真意がわかりはじめて愕然としたのは、人間は毎瞬毎瞬、肉体の感覚、記憶にどうしようもなく引き摺り込まれているということです。

これは善人悪人関係なく、肉体の感覚を持ち、日常生活している限り、無量とは反対の限定、分離、欠乏の方へ激流によって押し流されているということです。

無量に気がつけば気がつくほど、その激流の凄まじさも見ることになりました。

それはスッタニパータで仏陀が言っているように、牽引するもの、貪欲、ものすごい激流、吸い込む欲求、はからい、捕捉、超えがたい欲望の汚泥なのです。その牽引する力を万力に譬えた仏典もあります。

このとんでもない激流に気がついたとき、はじめて、仏陀が何故あれほど、『怠るな』『精進しなさい』と生涯言い続けたのかがわかりました。

そして、その激流を渡るには『絶対に』筏が必要なのもわかりました。『筏』とは具体的な方法のことです。

明確な意志を持って筏を漕ぎ、激流と正反対の『無量』に向かわなくては、そのままでは苦の集積に流されて行ってしまう・・・これが実感を持ってはっきりとわかったことでした。

 

ところが、世の中は、安易な言葉が蔓延しており、悟りの大安売り状態です。

 精神世界の本を読む人なら必ず目にする言葉たちがあります。私も20歳の頃には、これらの言葉を読んで悟った気、無我である気分になっていました。しかし、それはとんでもない勘違いだったのです。

『そのままでいい』『ありのままでいなさい』『すでに救われている』『すべてのことはただ起こっているだけ』『ただ見ていなさい』『気づいているだけでいい』『何も起こってはいない』『全てはただ起きているだけで、私がするべきことは何もない』『自由意志はない』『信じるだけでいい』『我はないのだから我をなくそうとするのも自我』『私などない』というような言葉たち。

これらの言葉を読むことによって悟った気分や一時的に救われた気分になれるかもしれませんが、『私という中心、限定、へこみ』という感覚は強固としてそのままなのです。

『私という中心がある』という根強い妄想を抱えたまま、頭の中で『私はない』『自由意志はない』という言葉に酔ってしまうことの危険性、それは洪水に流されていってる人が『すでに救われている』と妄想していることに似ています。

いくら救われている気分に浸っても、苦の集積に向かって激流に押し流されていることには変わりがなく、むしろ、意志をなくそうとしているだけに最悪の状態になります。

 

例えば、こんな記事があります。

『フランシス・ベネットという非二元についての本も出している元修道士が最近こんな感じのことを書いていた。現代の西洋でのアドヴァイタ・ヴェーダーンタに対するアプローチは抽象的で虚無主義的で粗暴で現実離れしている。個人、身体と心、現象世界、貧困や飢えや戦争や環境等の社会問題といった現実を否定することが多い。そうしたアプローチは無意味さや無気力の感覚につながることが多い。リトリートや個人セッションを繰り返してきたなかで、そういう教えによって落ち込んだり、人生に意味を見いだせなくなった人たちにたくさん出会った。』

 

 フランシス・ベネットという元修道士はアドヴァイタの立場から語っています。いま世界で流行しているネオ・アドヴァイタの現状はこういうものだと言っています。人がそういう教えで無気力になったり虚無感に陥ったり人生を無意味に思ったりすることは最も怖ろしいことです。それは人間にとって最も大事な自由意志を否定することが起こしたものです。

『全てはただ起きているだけ。私がするべきことは何もない。』というメッセージは間違いです。人間の最も重要な意志を否定していけば、人間は意志を持たず環境の奴隷になるだけです。

自分の一瞬一瞬の想いが環境を作り出しているのであり、どのような環境であれ、自分が作りだしたものなのです。想い=身口意の行為 がすべてを作り出すというのは、仏陀のメッセージです。

しかし、仏教は、特に、日本仏教はむしろ、主体や意志をなくしてしまう方向に大きくぶれていきました。

 

最古層の仏典『スッタニパータ』や『ダンマパダ』を調べていけば、歴史上の仏陀の真意が、主体を失わせることではなく真逆の自己の確立であることがわかるはずです。

 

実は、日本に仏陀の肉声に最も近い最古層の仏典が入ってきたのはごく最近のことです。『スッタニパータ』は4つの阿含経典に入ってなく、また、五時教判により、それが仏陀の肉声に近いものとは日本の歴史上思われたことはなかったのです。明治以前の仏教者は読んだこともなかったでしょう。

最近になって初めて、仏陀の真意はどういうものであるかが明らかになろうとしてます。

仏陀の真意を探求する気運が新しい時代に高まってくることを期待します。