相応部経典につき、
春秋社【原始仏典Ⅱ 相応部経典】にもとづき
相応部経典第一巻(詩句をともなった集)から順番に大切だと思う箇所を書き抜いていこうと思います。
『立ち止まることなく、あがくことなしに、激流を渡りました。』
最初から謎のような言葉が出てきます。
立ち止まることなく、というのは、怠ることなく、とか、不放逸に、という意味でしょう。
では『あがく』とは何でしょうか。
その後に『あがくときに溺れるのです』という言葉が出てきます。
相応部経典は膨大にありますので、それこそ立ち止まるわけにはいきませんので、『あがくことなしに』はここでは簡単に、『焦りやいらだちがないこと』『我の思いを前面に出さないこと』とだけ解釈しておきます。後で訂正するかもしれません。
『五つを断て。五つを捨てよ。さらに五つを修めよ。五つの執着を超えた修行者は、激流を渡った者と呼ばれる。』
解説では・・・
五下分結(欲界に結びつける束縛)=貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑 の五つ。
五上分結(色界と無色界に結びつける束縛)=色界の貪・無色界の貪・掉挙・
慢・無明 の五つ。
五根=信・精進・念・定・慧
五つの執着=五著 は、貪り(raga) 怒り(dosa) 迷妄(moha) 高慢(mana)邪見解(ditthi)
もろもろのつくられた事物は、すべて無常である。
生じては滅びる性質のものである。
それらは生じては滅びるからである。
それらの静まるのが、安楽である。
(第1篇 神々についての集成)
この言葉が仏陀の原点、仏教の原点だと思います。
この言葉は非常に重要です。
『無常』の意味が説かれています。
後世の仏教では『無常』とは『変化してやまないこと』『移り変わるさま』のことだと考えています。
しかし、そうではなく、『無常』とは『生滅の法』のことです。
生じる性質のものは必ず滅する、ということです。
ここがわからないと仏陀の真意は絶対にわからない。
『無常』をただ単に『変化すること』だとすると、春咲いた桜がやがて散り葉桜になり冬になると葉も落ちて枯れ木のようになるのも『無常』なら、枯れ木のようになった桜が春になって満開に咲く変化も『無常』となります。
しかし、仏陀が言っている『無常』とは『生滅の法』のことです。
生じたものはすべて滅に向かっていきやがて滅する。
ここにおいて、無常⇒苦 が成立します。
苦には、苦苦・壊苦・行苦 がありますが、壊苦は、愛着する対象となるものも生滅の法により滅していく、そして行苦とは、特に自分の肉体などが滅に向かって衰えていく苦です。
非楽非苦受も行苦となるのです。
この理法は、現に目の当たりに体験されるものであり、時を要せず、
『来たり、見よ』といわれたものであり、導くものであり、
叡智ある人々が各自みずから体得すべきものです
(第1篇 神々についての集成)
これは、愛欲が時を要するものであり苦しみ多いと説いた後の言葉です。
愛欲と対比して、理法は時を要さないということです。