仏教についてのひとりごと 13

例えば、大宝元年(701年)、日本史上初めて制定された大宝律令がありますが、この中の「僧尼令」では、僧侶の捨身往生、いわゆる自殺を禁じています。
つまり肉体を離れることで仏になり往生するということで、自殺が僧侶の間で流行していたのです。後世でもそういう現象はありました。
これは肉体だけが苦の原因と考え、死ぬこと=涅槃=仏になること という考えが仏教に根強くあったので、歴史上そういう現象もあったのです。

しかし、スッタニパータなど最古層の仏典を見ると、死ぬこと=仏になる ということは一切出てきません。
仏陀が繰り返し説いているのは、生前の想念のままに浮かんだり沈んだりするということです。

 

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こういう話があります。
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あるとき、ブッダにお弟子が尋ねた。
「世尊よ、長い経文を読んでもらったら、地獄に堕ちている者でも極楽へ往けるという人がありますが、本当でしょうか?」
 聞き終わられるとブッダは、無言で立ち上がられた。お弟子たちは戸惑いながらも、あとに従った。
 庭には池がある。黙然とその淵に立たれると、ブッダは拳ほどの石を手に取られ、中へ投げ込まれた。小さく水しぶきを上げ、石はみるみる沈んでいく。
「そなたたち、この池の周りを、石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれと言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか」
 お弟子は申し上げた。
「世尊、そんなことで石が浮かぶはずがありません」
「そうだろう。石は、石の重さで沈んでいったのだ。どんなに浮かび上がれと言ったところで、浮かぶものではない。人は、己の過去に造った悪業によって、悪因悪果、次の世界に沈むのだ」

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次には、油の入った壺を池に投げて、壺は割れて油が池に浮かんだ、という話になります。
『この池の周りを、油よ沈め、油よ沈めと言いながら回ったら、油が沈むと思うか』
と言います。
そして『人は、己の過去に造った善業によって、天上の世界に浮かぶのだ』と言います。

 

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そうですね。
仏陀の本心は、最古層のスッタニパータにありますが
そのスッタニパータの一番最初の文は『怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。』からずっと『この世とかの世をともに捨て去る』が続きます。

仏陀は古層の仏典において、何度も、死後は善業のものは天上の世界に、悪業のものは地獄の世界に赴くと言っていますが
修行者の究極としては、この世もかの世(天上の世界や地獄の世界など死後の世界)もともに捨て去った境地を説いたのだと思いますよ。

 

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owlさん
こんばんは。

禅では『生死事大』という言葉があります。
また、『死に習う』という言葉もあります。
死が何なのかというのは最も重大な問題です。

仏陀の言う『苦』は、この世に生きて快楽にまみれているわれわれには理解が実に難しいです。
一切皆苦』などとは、どう考えてもおかしいですよね。
人生には苦もあれば楽もあるに決まっています。
あるいは楽しいことだらけという人もいるでしょう。
一切皆苦』なんて、全く実情に合わないですよね。

なぜ、仏陀はそんなばかなことを言ったのでしょうか。
それが私のライフワークなので、ぼちぼち探求していきます。

 

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リッチポンタさん
こんにちは。

私は宗派には全くこだわりませんので、
鎌倉仏教の宗祖に関して好き嫌いで行くと
著作で一番好きなのは道元ですね。『正法眼蔵』は本当に魅力的です。
その、絶対一元論の世界は水晶のようなイメージです。
道元は、哲学者のいない日本では唯一の哲学者かもしれませんね。
人格で最も好きなのは法然ですね。この人はとにかく温かくて優しいイメージです。
比叡山一の秀才でありながら、驕ったところも全くなく
末法衆生が救われる道を命懸けで探求しましたね。
日蓮の生き方や明恵仏陀に対する深い思い入れなどにも共感します。
意外と栄西も好きです。歴史上あまり重要視されていないですが。

これを言うと、新しいアラシがまた湧いて出るかもしれませんが
罵詈雑言を怖れて本心を言わないのもバカバカしいですからはっきり言いますと
親鸞は私は評価しません。
親鸞は近代のインテリからは絶大な支持を受けていますし
歎異抄が愛読書の人も多いでしょうし、何より浄土真宗は日本の過半数の信者を誇る大教団ですね。
しかし、この人は仏教を頭だけで理解しようとしていて本当の安らぎに達していなかったのではないかと思っています。
その理由は、長くなるので次に投稿します。

 

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例えば、歎異抄にこうあります。

『念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらんと申しいれて候いしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。』
訳とすれば
『「念仏称えても、喜ぶ心がおきません。 また、はやく極楽へいきたいという心もありません。 どうしてでしょうか」と親鸞聖人にお尋ねしましたところ、「親鸞もそうなので疑問に思っていたのだが、唯円房おまえも同じ心だったんだな。」と言った。』
となるでしょうか。

つまり、弟子の唯円と同じく親鸞も、信仰による喜びの心、踊りだしたくなるような歓喜も体験していない、ということです。

そして、親鸞は考えに考え、こう結論付けます。
『よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、 喜ばないところが、いよいよいつ死んでも極楽参り間違いなし」と 思わずにおれないのだ。』
なぜかというと
『喜ばねばならないところ、喜ばせないのは、煩悩のしわざである。
しかるに阿弥陀仏は、百もご承知で、煩悩具足の凡夫を助けると 仰せられのだから、他力の悲願は、このような私たちの為である。』

だからいいのだ! ということです。

つまり、自分が信仰による喜びを体験していなくて、悩んで頭で考え続けた結果
煩悩が多い自分たちをこそ阿弥陀仏は助けると言ったのだから、それでいいのだ、
と理屈付けしたということです。

 

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ごまさん
はじめまして。

私は、親鸞の思想は究極には天台本覚思想と同じ方向性だと思っています。
天台本覚思想は、人間は皆生まれたまま悟っている、という思想です。
ですから、発心や修行を捨てるに至り、比叡山は堕落腐敗しました。

法然は、とても優しい人で、末法衆生は機根が低く、
念仏のうち、最も低い称名念仏こそが末法衆生にふさわしいとして
とにかく意識している間は念仏を称えなさいと説きました。
しかし、親鸞は、念仏してもしなくても、阿弥陀の本願によりすでに救われているのだから
念仏して救われるというのではない、と説きました。

方向性としては天台本覚思想と同じです。
天台本覚思想は確かに思想としては究極なところがあり、魅力的ではあります。
私も好きな思想です。
しかし、天台本覚思想によって比叡山は腐敗していきました。

おっしゃるように、親鸞の思想も純粋に思想としてみると
法然の思想をさらに徹底したと考えることができ、魅力的な思想です。
そしてそれは、天台本覚思想の爛熟を思わせる思想ですね。

 

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