仏教についてのひとりごと 14

私が書きたいことは、自分の中ではかなり明確になっています。
仏陀が言った『苦』とは何か?
そして、それが人類に何故理解できなかったか?

それは、この世で恵まれているとか恵まれていないとかではないのです。
仏陀は王族の王子でした。
仏陀によれば、夏用、冬用、雨期用の3つの宮殿がありました。
あの時代に、召使いでさえ、米と肉を食べていたと言います。
容色も優れ、若く健康でした。
快楽にまみれていました。

もし、貴方がスッタニパータを一度読んで、
『簡単に理解できる。意味など考えることない、スッタニパータで仏陀はそのままの言葉で語っている』と言われるのであれば、本当に凄いと思いますよ。
仏陀が言う『苦』が表面や観念ではなく本当に理解できれば、それは最初で最後の一歩だと思います。

貴方以外の人は、なかなか、『一切皆苦』という意味が理解できないのです。
どの人生にも苦もあれば楽もあるので、すべてが苦とはどうしても思えないのです。
そのため、人類は『苦諦』を捨ててしまったと考えています。

 

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グルジェフは『人間は機械である』と言いましたね。
外部からの刺激に決まりきった反応をするだけで、主体的になすことができない、と。
自販機のボタンを押せば、決まったジュースが出てくるようなものと捉えていたのでしょう。
その反応はすべて無意識のうちになされる、と。

『言葉みたいな黄葉で人をたぶらかしおって』というようなことは
一休に限らず、禅の人たちはよく自分の師匠にも言ったりします。
師匠もそれを聞いて、本当のことがわかりおったな、みたいにうれしがったりします。
不立文字、言葉を離れた境地を言葉で言うような無駄なことをしおって、というような意味で使いますね。
禅は非常に深い。
しかし、禅も大乗ですから四諦の法を捨ててしまった。
無思考型の瞑想は、実は危険で、悟れる人はごくわずかの優秀な人だけだったと歴史上思います。

 

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おはようございます。
自由とは、『自らに由る』と書きますね。
これは大変に深い訳語です。
人間は自らに由っていない。他人の目や環境の奴隷になっているのです。
ですから、人間は自由ではないです。

人間と言うのはおかしなもので、他人の目、他人の評価ばかり気にしています。
極端な例では、他人からの評価を得られるために自分の命も投げ出すこともあるのです。
どの人も完全に、他人の目の奴隷になっているということです。

人はみな、自分のことをまあまあ自由に生きていると思っています。
完全に自由ではないかもしれないけど、好きなものを食べ、好きなものを飲み
好きな人と付き合い、好きな趣味をする、ほとんどの時間を自由に過ごしていると思っています。
しかし、仏陀は人間は束縛されているとありありと見抜いたと思います。
そのありさまは『苦』としか思えなかったでしょう。

クリシュナムルティがいうように、自由であること、ただひとりあること、と孤立とは全く違うでしょう。
どんなに人に囲まれていても、それに依存せず自由であることはできます。
また、孤立している人が自由であったためしはありません。

自分の中に無数の依存があることを見るのは重要かもしれませんね。

 

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最初から書いていますように、私の考えとしては
仏陀の本当に言いたかったことから、仏教という枠組みができて教団が発展するにしたがって
大きくかい離してしまったと思っています。
大乗仏教はもとより上座部仏教仏陀の真意を伝えていない、というのが私の考えです。

この考えは、大乗仏教を信じている人にもテーラワーダ協会などの上座部仏教を奉じている人にも大変不愉快に感じることと思いますので、少しでも不愉快に感じる人はこのスレを無視し、あるいは私を無視リストに入れていただきたいと思います。
スレッドなど他に何百もあるのですから。
自ら信じることと違う意見を聞くのは面白くないと思う人は多いでしょう。

私は大乗仏教が好きですし、華厳経法華経も読み、大乗の祖師や宗祖の方々も深く尊敬しています。
しかし、私の今のテーマは『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか?』です。
そのためには、最古層のスッタニパータを基とし、スッタニパータと同じくらい古層の仏典に依るしかありません。

 

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