遠藤周作のキリスト教観

 id:TToshi  
企志さん 先日は 『大いなる人の八つの悟り』を参考にブッダの教えを確認する を読んでくださり、ありがとうございます。
私はキリスト教よりもイエスという人物そのものに関心があり、強く尊敬しております。
彼ほどの慈悲を示せた人がいたでしょうか。
彼ほどあなたの苦しみを私は知っていると言い切れる人がいたでしょうか。
(私のイエス像は遠藤周作氏によって形作られたようなものですが)
自らの弟子たちにさえ彼の真意が伝わらず、外野の私は気の毒だなぁなどと思いはしますが、彼はそんなことを気にすることもなかったのでしょう。
今日キリスト教徒の方ですら、イエスの真意が理解されていないように思われます。 力なき生身の存在としてのイエス、彼は私たちと何も変わらない。
けれども誰にもなし得ないほど、苦しみに絶望するものの傍らから離れることがない。 その姿、その意思に、私は驚嘆するのです。
 
さて本題ですが ご著書でも四念処の瞑想について語られておられますが、ご著書の性格上、具体的な実践の紹介よりもポイントの解説が選ばれたのでしょう。 具体的な実践は煩雑になりますからね。 個別性を伴うものですし。
実践法の一つとしてブログをお読みの方や仏教に関心を持たれている方の参考になればと思い こちらを共有させていただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。

 

 

TToshiさん。

ヴィパッサナー瞑想実践法の資料ありがとうございます。

一人でも多くの人に広まっていくように祈っています。

 

遠藤周作のイエス・キリスト観は私も共感します。

極めて日本人的なキリスト教観だと思います。

しかし、キリスト教神学を基礎とした現在のキリスト教会からすると、多分、相容れないのではないでしょうか。

私も、一人の覚者としてのイエス・キリストは非常に素晴らしいと思っていて、聖書も読むことがありますし、キリスト教関係の映画はマイナーなものも含めてかなり観ています。

ところが、イエス・キリストを一人の覚者と見ること自体、キリスト教学からすると許せない態度でしょう。

 

『沈黙』で語られるイエス・キリストは、人間の弱さに寄り添う慈悲深い存在です。

仲間が拷問されるときの叫び声や自らの痛みや恐怖に耐えられなくて信仰を捨ててしまう人間の弱さをともに悲しみ受け入れてくれます。

しかし、残念ながら、キリスト教神学ではそうではないようです。

イエス・キリストは我々人間と隔絶した神であり、完全な存在です。

私たち人間がその弱さを克服して一人の覚者となったのではなく、完全なる神が受肉したのです。

罪を犯すのであれば、目をくり抜け、手足を切り捨てよ、と言う激しさがあります。

 

遠藤周作は晩年、ヒンドゥー教の受容性を取り入れたキリスト教を指向します。

正統なキリスト教会からすると異端とされるような考えですが、もしそのようなキリスト教があれば素晴らしいとは思います。