スマナサーラの『法華経は、一人の人でなくて多くの人が書き足し書き足ししたもので一貫性がない』
という言葉について考察します。
私は、序品第1から嘱累品第22までは、一人の人が書いたと思っています。
この人をAとします。
ただし、提婆達多品第12だけは後世に付加されたと考えます。
嘱累品第22で完結しているところ、Aの後継者Bがどうしても付け加えたくて、薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までを書いたと思っています。
私の考えでは、Aとその後継者Bは極めて親しい関係です。
そして、Bにはどうしてもそれを書かなくてはいけない訳がありました。
私がこう考える理由は次に出す本の中で詳しく書きます。
さて、スマナサーラに限らず、法華経は内容がバラバラで一貫性がないとか、そもそも内容自体が全くないとの感想は多くの人が持つものだと思います。
序品で光を発してこれから何かが始まると思っていると、方便品では、仏知見を示すために如来は生まれたと言うだけで、その仏知見は仏だけにしか分からないものだと突き放しています。
それから喩え話が主に説かれます。
三界火宅や長者窮子や薬草の喩えです。
次は授記の場面が延々と続きます。
かと思うと、法華経を広める人たちへの迫害を説いたりします。
さらに、地面から巨大な宝塔が現れたり、無数の菩薩たちが現れたりします。
確かにバラバラに見えます。
法華経は一体何を言いたいのでしょうか。
ごまかさずに『全くわからない』自分と向き合うことが極めて重要だと思っています。
答えを知りたくて、仏教解説書、法華経解説書を読み漁ってまあまあ納得できそうな解説を見つけたとしても、それはその解説書の著者の考えにしか過ぎません。
そこそこのところで自分を納得させている人が極めて多いと思います。
私の場合、どの解説書を読んでも、これが経王と呼ばれる内容だとは思えませんでした。
心から納得できないものは納得しないという姿勢が大事だと私は思っています。
解説書を読んで知識を多くしただけで満足してその知識量、読書量でマウントを取る人がいかに多いかは、ヤフー掲示板やマニカナのアラシたちを見てきたのでわかります。
今は断言できます。
法華経は間違いなく経王です。
最高の仏典です。
原始仏教によって仏陀の真意がわかり、仏教が根本分裂を経て部派仏教になってかけ離れていった歴史がわかって、紀元前後の状況がわかって初めて法華経の真意がわかるのだと思います。
大乗仏教を興した人たちは、部派仏教のどこに強烈な不満を持ったのでしょうか。
その答えはすべて法華経の中で明かされています。
法華経は大乗仏教が興った謎を解き明かす最大の鍵でもあるのです。
法華経がわからないうちは、バラバラな内容に思えます。
しかし、仏知見、一大事因縁、諸法実相、如来秘密神通之力、観音力、一仏乗、という言葉が意味するところがわかってくれば、すべてが繋がってきます。
『ただ虚妄を離るるを名付けて解脱となす。それ実にはいまだ一切の解脱を得ず。 この人はいまだ無上道を得ざるが故に。』
『空法において証を得たり。 これ実の滅度にあらず。』
『我見および有無の見等を離れたるをもって、涅槃を得たりと思えり。』
(続きます)