清水俊史著『ブッダという男』の最も核心的な部分はここです。
『ブッダはいずれの天界であろうとも現象世界の内側にいる限り解脱(不死)はあり得ないと考えた。つまり現象世界の外側に解脱を求めた』
『ブラフマンの世界は、大梵天と呼ばれる中級の天界に過ぎない』
無所有処、非想非非想処も天界のひとつにすぎないとしています。
無所有処と非想非非想処についてはそうでしょう。賛同します。
ですから、仏陀は、『解脱に赴かない』と言って捨てたのです。
ところで、清水氏はこのようにも書いています。
『ここで重要なのは、この十二要素の外側に、我々が認識できない超越的な何かが存在するわけではない点である。ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する“一切”つまり、これ以外のものは存在しないと説いている』
清水氏のこの2つの主張からすると
ブッダは現象世界の外側に解脱を求めたが、現象世界の外側には何も存在しないと説いた、という結論になります。
つまり、解脱とは何もない世界、虚無の世界に行くこととなります。
仏教がしばしば虚無論と言われるのは、このようなことを言う者が後を絶たないからです。
仏教は、仏陀の死後、唯物論的傾向、虚無論的な傾向に傾いていきます。
十無記で、如来の死後を無記としたため、無記を無と捉える者たちが主流となっていきます。
部派仏教がこのような傾向を強めたために、仏陀の真意を復興させようと興ったのが大乗仏教だと思っています。
今また、部派仏教も大乗仏教もこのような唯物論的傾向を強めています。
仏教の死後の解釈には主に4つあります。
①死後の世界も輪廻転生も全く認めない。
迷いの衆生であろうが悟った仏陀であろうが死ねば無に帰す。
②迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返すが
解脱した如来は輪廻を終えて無に帰す。
③迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返す。
解脱した如来の死後については測ることができないとして無記。つまり、説かない。
④迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返す。
解脱した如来は、死後も涅槃の境地でいる。
業でなく誓願により、人間として生まれることも可能。
今の仏教、部派仏教も大乗仏教も、ほとんど①が主流になっています。
完全な唯物論です。
死ねば何もないということです。
仏陀が断見として斥けた迷妄のひとつです。
この清水俊史氏の主張は、②です。
解脱とは何もない無の世界に行くことという解釈です。
虚無論ですね。
仏陀の真意は③です。
これは仏陀の言葉を追っていけばわかります。
④はバラモン教の色彩が強いですね。
はっきりと悟りの世界の実在を説く教えです。
実は大乗仏典の多くは、④に立脚しています。
歴史上の仏陀は、如来の死後については無記でした。
しかし、そのせいで、仏陀の死後、①や②の説になってしまいました。
そこで、大乗仏典では、如来の死後の実在を強調していきました。
常楽我浄の法身を強く打ち出していきます。