仏陀の言う『空』とは

後世の仏教において、すべての存在は無数の原因(因)や条件(縁)によって成り立っているので、自性などなく、空である、というように、縁起、無自性、空の理論ができ、それが仏教の根本思想となりました。

 

仏陀は空の理論は説きませんでした。

スッタニパータで『空』という言葉が出てくるのは、『世界を空と見よ』という箇所くらいです。

この時の、『空』とは、生じたものは必ず滅する、はかないものだ、という意味です。

 

私が好きな仏典に、相応部経典22.95『泡沫』があります。

五蘊が見掛けだけのもので実体がなく本質もないということを説いた経典です。

色を、ガンジス川に浮かんでは消えるあぶく

受を、雨が降って水溜まりの上に立つ泡

想を、真夏の昼間にただよう陽炎(かげろう)

行を、茎のない芭蕉の木

識を、手品師がする手品

に喩えています。

 

この喩えが秀逸なので、とても好きな経典です。

 

ガンジス川に浮かぶ大きなあぶくに比べ、雨粒によってできた泡は小さなものです。

身体を大きなあぶくとし、

受を絶えず降り注ぎ出来ては消える小さな泡とするのは適切です。

想(表想)はかげろうのような不確かさです。

芭蕉の木というのは馴染みがありませんが、実は木ではないらしいです。

草に過ぎず、茎に見えるところも短期間で変滅するようです。

外からは堅固に見えても中身(樹心)がなく、茎を剥いても剥いても葉っぱだけの植物らしいです。

行(意志作用)を喩えるにとてもうまいです。

識を手品師(魔術師)の手品(魔術)としているのも、幻覚、錯覚を示唆していて秀逸です。見ている間だけに生じている幻覚で実体がなくすぐなくなるものです。

 

この経典には『空』という言葉は使われていません。

しかし、五蘊皆空という仏教の言葉は、このような説法から来たのでしょう。

 

すべて、生じてはすぐに滅するはかないもの、常住したり存続したりするものがないという喩えです。

 

このように、仏陀が言う『空』とは生じてはすぐに消えるはかないものという意味です。

 

もうひとつ、

『すでに生じたものであるから、「無」であると言うことはできない。

必ず滅するものであるから、「有」であると言うことはできない。』

という意味で、

一切は、有でもなく無でもない、と言ったことはあります。

これが、後世に、有でもなく無でもなく空だ、ということになったのでしょう。