苦と苦の滅

  [No.21842] Re: スマナサ-ラ氏の苦は現代人の苦より射程が広い 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 19:29:04

メッタ-さん、こんばんは。

> スマナサ-ラ氏がドッカを苦じゃないと考えるわけがないと思うね。
> 現代人の考える苦を含んで、さらにより根本的な苦という意味。


スマナサ-ラはdukkhaにつき、こう言っています。

『dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。分析しますと、まず「du」という語は、場合によって意味が変わってきますが、この場合「無価値・たいしたことがない」という意味で使われます。分かりやすく言いますと、日本語に「石」という語があります。この「石」の前に「小」という語をつけると、「小石」となります。小石というと、大きな石でもなく、きれいな石でもなく、どちらかといえば小さい石とか、たいしたことのない石、が思い浮かぶでしょう。「小」という漢字には「小さい」という意味もありますが、ほかにも「たいしたことがない・あまり価値がない・重要さの程度が少ない」いう意味もあるのです。
また「川」という語の場合なら、その前に「小」をつけると「小川」となり、意味は「たいした川ではない」となります。
このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。
「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。』




しかしながら、
そもそも『kha』という語自体、仏陀の死後ずっと後世になって初めて現れた言葉です。
後期の上座部論書の清浄道論において、dukkhaをduとkhaに分解して解釈してからです。
それまでのどの経典にも『kha』という言葉はないはずです。

なぜわざわざ言葉を作ったかというと、dukkhaを苦とすることに非常に抵抗を感じたのだと思います。
人生には楽も苦もあり『一切皆苦』なんてあまりにも現実に即していないという批判があったからです。

私が言っているのはこれです。
人類は仏陀が言ったdukkha=苦が理解できなかったため、無理矢理解釈を捻じ曲げたということです。



『清浄道論』(Visuddhimagga)は5世紀くらいに書かれた論書です。
ですから、仏陀の死後1000年くらい経っていますね。

詳しく言うと、そこにこのような記述があります。

『ここにduという音は嫌悪するものに付せられる。実に嫌悪されるべき子を人々は悪い子という。次に、khanの音は、空虚なものに付せられる。実に空虚なる虚空はkhanという。
この第一の諦は、多くの災難が生じるところであるから、嫌悪せられ、愚人が思惟する常楽我浄の性質がないから空虚である。ゆえに嫌悪せられたるが故に、また空虚の故にdukkhamと言われる。』

この5世紀の論書を基にスマナサ-ラは、『dukkhaは苦という意味ではなく、空しいということ。』と書いているのです。


 

 

  [No.21869] 『説いても無駄だ』と想った仏陀 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/17(Thu) 10:11:40

石飛先生、おはようございます。


> そして、そこにショ-シャンクさまは反発を感じられると。

反発を感じているわけではないのです。一番最初に書きましたように『情けない』と思っているだけです。

今まで大乗でも部派でも仏教書を読んで、『本当に歴史上の仏陀はこういうことを言いたかったのだろうか?』という疑問が出てきたので、私は、すべての仏教知識を白紙にして、仏陀が本当に言いたかったこととは何だろうと探求し始めたのです。
ですから、今さら、部派であれ反発や不満は感じません。
反発や不満は期待するときに生じますから、期待していない以上、そういう感情は生じません。

ただ、仏陀は成道の時に『これは説いても誰にもわからないから説くのは止めよう』と思った、その想いは、仏陀在世の時はともかく、仏陀がいなくなってからはかなりその通りだったと考えているだけです。
それほど、仏陀の理法は世間の常識とは正反対なものだったということでしょう。
特に『dukkha=苦』は、時代を経るに従って、本当にわかる人がいなくなっていったように思えます。

『dukkha=苦』は、仏陀の教えの核心中の核心なので、仏陀の理法の理解はdukkhaが本当にわかるかどうかにかかっていると思っています。

ただ、仏陀が言った『dukkha=苦』は、私たち人類が理解するのは非常に難しいと思います。
人生には苦もあるけど楽もあるのが常識だからです。
人生にはもちろん苦はありますが、楽しいことだって快楽だっていっぱいあります。
人生思い通りにならないのが苦の意味だ、というのが最近の定説のようですが
1%も思い通りにならない人もいれば、99%思い通りになる人だっている。
そういう人でも老いもあるし病いもあるし死ななくてはいけない、と言ったところで、
人生に起きるすべてが苦であるわけではないので、『一切皆苦』という意味はどうしても心の底から理解できないできたのです。

また、『人生は苦だ』『一切は苦だ』などというとは、仏教はなんて悲観主義なんだ、と西洋人から非難されることも多かったですね。

そんなこんなで、dukkhaを『評価に値しないほどの空っぽ』という意味としてしまったのでしょう。
それも根拠は、5世紀の『清浄道論』(Visuddhimagga)の『ここにduという音は嫌悪するものに付せられる。実に嫌悪されるべき子を人々は悪い子という。次に、khanの音は、空虚なものに付せられる。実に空虚なる虚空はkhanという。
この第一の諦は、多くの災難が生じるところであるから、嫌悪せられ、愚人が思惟する常楽我浄の性質がないから空虚である。ゆえに嫌悪せられたるが故に、また空虚の故にdukkhamと言われる。』という語義解釈からです。

この5世紀の『清浄道論』以前にできた原始仏典で、仏陀がdukkhaを『評価に値しないほどの空っぽ』という意味で使ったことがあったでしょうか。

やはり、dukkhaは、仏陀の昔から苦、苦しみ、痛みなのです。

dukkhaは、仏陀の教えの核心中の核心であるがゆえに、ここを後世の者が意図的にねじ曲げてしまったら、仏陀の真意は伝わらなかったのも仕方ないことだと残念に思っているだけです。


 

 

  [No.21877] Re: 『説いても無駄だ』と想った仏陀 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/17(Thu) 13:52:32



> わたしは、少し考え方が違います。愛着を喜ぶわたしたちは、縁起の理法を理解しがたいと、ブッダは見たのだと思っています。「ドゥッカが分からない」というのとは、ちょっと違うかな、という感じです。


そうですか。
私は、仏陀が言っているように、最初から最後まで『苦と苦の滅のみを説いた』と考えています。
『執着を喜び、執着に歓喜する人々に、縁起の法は理解しがたい』と仏陀は思いました。
私は縁起の法とは、苦の縁って起こる原因のことだと思っています。
具体的には十二縁起です。
縁起の公式は、それを滅すれば苦が滅するという直接原因、根本原因を発見するための公式だったと見ています。

執着は苦そのものでもあるし、さらなる苦の集積の原因でもあります。
しかし、衆生は、執着を苦と見ずに執着を喜び執着に歓喜しているありさまです。

いま、苦にあることがわからないのに、苦の生起や苦の滅である縁起の法を説いても理解しがたいということだと考えています。


> 確かにそうかもしれませんが、苦は学習すればどんどん得ていけると思います。ものの見方を学ぶと、それだけで、どんどん自分で得ていけると考えています。
> 「これも実際苦しみだったのだな」と知っていくと、苦しみに気づくのが習熟していき、それを避けることもできるようになっていきます。

> 「楽は苦の本」とブッダが教えて、人々は学習していきましたね。習なわなければわからないかもしれませんが、教えてもらうなら気づいていけます。
>
> > 人生に起きるすべてが苦であるわけではないので、『一切皆苦』という意味はどうしても心の底から理解できないできたのです。
>
> これは、ある意味、思想だと思います。「一切は楽である」と考えて、人生をわたっていく人々もいます。ブッダは苦と見なさいと教えたのだと理解しています。


そうですか。
私は苦はもっと根源なるものと考えています。
仏陀が『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』と言った、このことの全的な理解が、仏陀の教えの最初でもあり最後でもあると思っています。

苦に関しては議論しても仕方なく実感するしかないことだと思いますので、これで終わらせていただきます。


 

 

  [No.21882] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 06:43:21



> > 私は、仏陀が言っているように、最初から最後まで『苦と苦の滅のみを説いた』と考えています。
>
> 四聖諦を説いた、という判断ですね。
> 「縁起」は、四聖諦に至るための手段としてのみ用いるもの、と。


仏陀は言っています。
『私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。』と。

仏陀の生涯にわたる膨大な教説は『苦と苦の消滅のみを説いているのです』。

それは、決して、四諦に限定されるのではありません。
すべての言説が、苦と苦の消滅のみのためになされたのです。

中部経典『蛇喩経』には、
『無常のもの、苦のもの、変化する性質のものを〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と認めることは適切ではない。
このように五蘊非我を正しい慧によって見た場合、解脱する。
その者は、根絶され、未来に生起しない者となる。
このように心が解脱している比丘を、〈見られない者である〉と言います。
このように語る私を、ある沙門やバラモンは『虚無論者であり、生ける者の断滅、破壊、破滅を説いている』と誹謗します。
私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。
それゆえに、そなたたちに属さないものを捨断しなさい。
色・受・想・行・識を捨断しなさい。』


ここでは、苦と苦の消滅が、四諦でなく、五蘊非我によって語られています。



> > 私は苦はもっと根源なるものと考えています。
> > 仏陀が『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』と言った、このことの全的な理解が、仏陀の教えの最初でもあり最後でもあると思っています。
>
> 「一切皆苦」を、ブッダは、説いたのだと。

苦と苦の消滅に至るためには、『苦』の全的な理解が必要なのです。
歴史上の仏陀が繰り返し言っていることのすべては、苦と苦の消滅なのに、
後世になればなるほど、仏陀の言ったdukkha は見向きもされないか、あるいは当たり障りのない言及でお茶を濁すようになります。
dukkhaは空っぽという意味などと言われ始めます。
あるいは、大乗仏教では、『苦』の代わりに『空』が仏教の根本教理となっていきます。

仏陀は『空』を説いていません。
スッタニパ-タには、『世界を空なりと観ぜよ』という1箇所があるだけです。
そして、仏陀が言った、『空』とは、生じれば滅する、泡のようにはかないもの、という意味です。



> 「十牛図」も、そのための手段の一つとして見ていたけれど、どうもうまくいかないようだ、ということでしょうか。。まあ、そういうことかなと、了解しています。

禅では、仏陀の理法、つまり四諦十二縁起を洞察することがありません。
ですから、苦の全的な理解も無理です。
ただ、仏陀の理法を瞑想していると、なぜか、禅の公案が理解でき面白くなってきます。
禅の人は否定するでしょうけど。



> わたしとしては、「筏は捨てねばならない」ということを強く意識します。

まさしく今、筏で激流を渡っているときに『筏を捨てなければならない』などとは考えません。
激流を渡り終えて、彼岸に着いたときに、筏は捨てればいいのです。
筏に乗って必死で漕いでいるときに、それを捨てることを考えるのは、
あまりにも観念的です。
向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。


 

  [No.21887] Re:まとめ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/18(Fri) 10:05:34



> ショ-シャンクさまは、この一文を、この経典のテ-マに添った、沙門やバラモンの誹謗中傷に対するブッダの応答だ、という風には、とくに見ないのですね。
> 「苦と苦の消滅のみ」というところを、無条件に、ブッダの説と執っているわけですね。
> よく見ますと、ブッダは、このように説くところは他にもあります。
> たとえば、異説に心うばわれているマ-ルンキヤプッタにも、同じように語っていると思います。そこでは、ブッダは、説かれた教えと、説かれなかった教えがあることを説いています。


先生が挙げられていた中部経典第63『小マ-ルンキヤ経』(箭喩経)にもまさしくありますように、

> マ-ルンクヤプッタよ、わたしによって語られたことは何であるか:
> マ-ルンクヤプッタよ、『これが苦である』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の集起するところである』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の滅である』というのが、わたしによって語られたことである。
> 『これが苦の滅へ向かう道である』というのが、わたしによって語られたことである。


つまり、仏陀が説いたことは苦と苦の消滅なのです。
このようにはっきりと仏陀が断言しているのですから、少なくとも仏陀の最も根本的なテ-マが苦と苦の消滅であったことは明らかです。
むしろ、このような仏典がありながら、何故、先生がそれを否定されるのかがわかりません。


> マ-ルンクヤプッタよ、なぜ、これがわたしによって語られたのか:
> なぜなら、マ-ルンクヤプッタよ、これは利益をともなうからである。これは、最初の清浄行のものだからである。これは、厭離に導き、離欲に導き、止滅に導き、寂静に導き、証智に導き、正覚に導き、涅槃に導くからである。それだから、これはわたしによって語られたのである。
> それだから、マ-ルンクヤプッタよ、ここで、わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。(「箭喩経」)
>
>
> こう述べていますね。説かれなかった教えも憶持しなさいということも、読みとれます。


これは、そう読んではいけないと思います。
その言葉通りに受け取るべきかと思います。
『わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。』というのは、語られなかったことは、(厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないと言う理由で)語られなかったこととして受け止めなさい、と言うことだと思います。
つまり、厭離のためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないことをあれこれ考えずそのようなことに時間を割いてはいけません、ということでしょう。

片山一良の訳では
『それゆえに、マ-ルンキヤプッタよ、私によって解答されてないものは解答されないものとして受け止めなさい。また、私によって解答されているものは解答されているものとして受け止めなさい。』
です。

> こう述べていますね。説かれなかった教えも憶持しなさいということも、読みとれます。

この仏陀の言葉を、仏陀が説かれなかった教えも憶持しなさい、というのは真逆な解釈だと思います。



> > 仏陀は『空』を説いていません。
> > スッタニパ-タには、『世界を空なりと観ぜよ』という1箇所があるだけです。
> > そして、仏陀が言った、『空』とは、生じれば滅する、泡のようにはかないもの、という意味です。
>
> では、泡のようにはかないものなら、無常を説いていますね。それも、説いてるうちに入らない?
> また、五蘊非我も説いていますよね。それも、苦を滅するための補助手段でしかない?


無常を説いています。
無常とは生滅の法のことです。
生じれば滅する、ことです。
生じれば滅するから苦なのです。無常であるから苦なのです。
これも仏陀は繰り返し繰り返し説いています。
五蘊非我も説いています。
仏陀は矢を抜く方法をいくつも説いてくれています。
仏陀は『私は矢を抜く最上の人だ』と言っています。
矢を抜く名人なのです。
人間は毒矢が刺さって苦しんでいるのです。
四念処も五蘊非我も矢を抜く方法、苦を生滅する方法です。



> これらは、仏弟子たち(声聞たち)に合った教えだから説いたのだ、とは考えませんか?
> 苦と苦の滅は、仏弟子たちに受け容れやすい教えだったから、そこをメインに説いたとは言えませんか?

私は、そう見てはいけないと思っています。
仏陀自身が、出家をし修行したのは、四門で苦を見、苦の消滅を見たからです。
仏陀自身の大テ-マでもあったのです。

声聞が受け入れやすいから説いた、というのはあまりにも後世の大乗の見地から仏陀を解釈することになります。
私はそれをしたくなかったので、大乗の知識しかなかったのですが、すべて白紙にして探求しようと思ったのです。


> ショ-シャンクさまの筏は、ブッダの四聖諦・十二支縁起などからするものだとすれば、
> どんどん解体されて捨てつつわたっているようですよ。
> 「蛇喩経」の中でも、たえず、自分のものでないものを捨てなさい、といっています。
> だから、五蘊を捨てよ、と。
> 筏の喩えは、まさしく「蛇喩経」の中にあります。
> 比丘たちよ、筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。比丘たちよ、あなたたちに筏の喩えが法として説かれたのである。あなたたちが了解しているならば、諸々の法であっても捨てるべきである、いわんや、非法ならなおさらである。(「蛇喩経」)
> この後、六つの見解の立場が説かれ、無常・苦・無我の教えが説かれます。
> 筏の喩えの経典を読んでいると、どんどん捨てて行かねばならないということを知っていくのではないでしょうか。
>
> > 向こう岸に着いたら、筏は背負ってはいけないでしょうけど。
>
> 向こう岸に着いたら、筏は解体されてすでになくなっているでしょう。筏の喩えも法なのですから、それも捨てられていると思います。
>
> わたしは、観念で言っているのではありません。
> ショ-シャンクさまとブッダの教え「蛇喩経」とを見て、そのように言っています。


『筏の喩えは、わたしによって、渡るために説かれた法であり、執っておくために説かれたのではない。』と書いてあるではないです
か。
七覚支に択法というのがあるように、不善法をどんどん捨てていかなくてはいけません。
しかし、善法は選択され残されます。
そして、それを筏として向こう岸に渡ったならば、それも筏として捨てるべきです。
まさしく『渡るために説かれた法』なのです。
私はまだ渡っていないので、筏は絶対に必要なのです。