仏教についてのひとりごと 88

原始仏典を少しでも読めば、仏陀の教えの大前提に輪廻転生があることは明白です。
仏陀が目指したのは輪廻転生からの解脱なのです。

『ダンマパダ』にも『わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐってきた』『あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである』とあります。
仏陀は幾多の生涯を経験して、この生涯でやっと『家屋の作者』を見つけて、それを滅ぼし、再びこの世に生まれることはなくなったのです。

原始仏典には、輪廻転生も死後の世界も数多く説かれています。
迷いの自我が、死後の世界にも行き、また再びこの世に生まれる、というのが仏陀の認識です。
それは迷いの世界、苦なのです。
それ故、悟った者は『この世とかの世とをともに捨て去る』のです。

 

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<<この世とかの世をともに捨て去り、何処に行くのでしょうか?>>
たーぼーさん、おはようございます。
この世(現世)もかの世(死後の世界)もともに現象にしか過ぎません。
形成されたもの、生じては滅するもの、です。
生滅を滅しつくしたところが涅槃です。

<<おそらく日本の仏教に輪廻転生が無くなったのは仏教に悟りが無くなったからだと思います>>
仏教者という人に輪廻転生を否定する人が多いのは
仏陀が言った諸法非我を、諸法無我としてしまったからです。
無我=アートマンがない
アートマンが無い⇒霊魂がない⇒生まれ変わる霊魂などない⇒輪廻転生などない
となったのです。

 

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<<ということは、涅槃とは無ではないのですか?>>

これは根幹に関わることなのでオープンの掲示板ではこれ以上は控えたいですが
私は無量心だと思っています。
喩えでいうなら、無限の空間、無限の大海、中心のない空間、です。

<<有るでもなく、無いでもないから、無記としたんですね。>>

いえ、有るでもなく無いでもないから仏陀は無記としたわけではありません。
正覚に赴かず、涅槃に赴かず、解脱に赴かないから無記としたのです。
世界は常住なのか無常なのか(言い換えれば、世界に実体があるのか実体がないのか)
霊魂があるのか霊魂はないのか、世界は無限なのかそうでないのか、
などは、涅槃に赴かないから無記としました。

仏陀は自分のことを『矢を抜く者』といいました。
苦を消滅させる者ということです。

しかし、残念ながら、仏陀のその真意は理解されず、哲学や形而上学を戯論として退けた仏陀に反して、後世の仏教者たちは、部派仏教においてはアビダンマという煩瑣な哲学に耽り、龍樹は縁起を勝手に解釈して空の哲学を作り上げました。
実体があるとかないとか、アートマンがあるとかないとか、そのようなことを哲学すること自体、仏陀の真意に反します。

 

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大乗仏教の心意気はわかるのですよ。
部派仏教に分かれ、アビダンマの煩瑣な哲学にうつつを抜かしていた仏教に対し
『こんなものは仏陀の真意じゃない。もっと大きなものを忘れてしまっている。』と叫びをあげたのでしょう。
もし、私がその時代のインドに生まれていれば間違いなく、大乗仏教側になっているでしょうね。部派仏教は仏陀の教えの大事なものをなくしてしまいましたから。大乗仏教は、仏陀の真意の復興運動がその本質だと思っています。

しかし、残念ながら大乗仏教は部派仏教を小乗と卑しめただけでなく、仏陀の教えの根本であり後世に残してくれた筏である四諦十二縁起を捨ててしまいました。
彼岸に至る筏がないため、どこにも行き着かないものとなりました。

中観派を自認し龍樹の熱烈な信奉者である宮崎哲弥氏でさえ『大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。宮元啓一氏が「大乗仏教で涅槃に入った人がいるだろうか。答えは全く否なのである。」と喝破している通りなのです。』と断言しています。

私は道元が究極の悟りに至っているとは思っていません。正法眼蔵は、哲学的な詩として素晴らしいと思っていますが、やはり哲学の限界というか、精神の全き自由に達してはいないと思っています。
究極の悟りを捨ててまで衆生を救おうと思っている人が、寄進状をもらってきたからといってその弟子の坐っていた床を壊し、その床下の地面を2mも掘って捨てますか?
権力者から寄進されるのが嫌なのであれば、その弟子を皆の前で厳しく叱咤するのは仕方ないですし、場合によっては破門のこともあるでしょう。
しかし、地面を2m掘って捨てるのはどう考えてもおかしいです。すくなくとも、柔軟心には達していないと思いますが。

 

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pipitさん、こんばんは。
『大念処経』、スマナサーラの本を持っていて読みました。いまは山荘にいるので手元にはないですが。
pipitさんは、テーラワーダをされているのでしょうか。
部派仏教は20以上に分かれましたが、いまはテーラワーダとして残っています。
そのテーラワーダで、現在、四諦の法の瞑想を実践しているでしょうか。また十二縁起の瞑想は実践されているのでしょうか。
いま、世界中で、四諦十二縁起を瞑想するところはないように思えます。
仏陀が、最勝の法、甚深の法と言ったもの、成道の時に瞑想していた法を瞑想することもなくなっているのです。

<<ショーシャンクさんは、四諦の苦を、別の定義で書くおつもりかな?>>
スマナサーラは、dukkha(苦)は苦しみという意味ではないと言っていますよね。
虚しいとかそういう意味であって、苦という訳語は非常に不適切だと何冊かの本で述べてますね。
私は、四諦の苦、dukkhaを、そのまま苦として考えています。
苦以外の定義などあり得ないと思っています。
別の定義にしてはいけないと思っています。

仏陀は、哲学や形而上学は戯論として退けました。
しかし、部派仏教になってから、各部派は競うように煩瑣な哲学体系を作り上げることに没頭してしまいました。
私はそれを、仏陀の真意とは違うとして批判しています。
仏陀の教えを哲学や形而上学になどしてはいけないのです。

 

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pipitさん、おはようございます。
詳しい説明、ありがとうございます。
お疲れ様です。

四諦十二縁起は仏教の基本用語とされていますから、仏教解説書でも触れることは多いと思います。
ただ、実際に、四諦を瞑想したり十二縁起を瞑想したりするところはないと思います。
テーラワーダでも、ヴィパッサナーが基本で、その根本はsatiですね。他には、慈悲の瞑想や四念処観はすると思いますが、テーラワーダの人に聞いてみてください、四諦十二縁起の瞑想は実践してないはずです。

pipitさんが、テーラワーダをされるのはとてもいいことだと思いますし、想念、思考の減少、苦しみの減少をもたらしてくれると思います。

ただ、私個人に関しては、スマナサーラのdukkha=苦の解釈、sati=念の解釈、などに納得できないので、自分で研究しています。

スマナサーラの『苦の見方』という本にしても、本の帯に大きく【ブッダの「苦」は「苦しみ」ではなかった!】と書かれています。
内容に関しては、モンブランのケーキが大好物だったとして、1個食べると楽しいが、モンブランを2kg持ってきて食べ続けると苦痛になる、というような例え話が、おにぎり、リンゴ、ぶどうと延々と続きます。
また、『生きることは苦ということは、動物はよく感じています。』としています。動物は自分が殺されてしまう恐怖やえさがない恐怖など、人間にはない恐怖があるので人間より苦を感じているという説明です。

わたしとしては自分で四諦や十二縁起を洞察したいと考えています。

pipitさんにはパーリ語原典のサイトをご紹介いただき、大変感謝しております。
本当に助かりました。ありがとうございます。

 

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<<ショーシャンクさんでも、自分が経験で確認したことをお書きになるつもりでしょう?
でもそれは例えば、(思考?)瞑想実践してない人にとっては、形而上学になる可能性ありませんか?>>

それはそうでしょうね。他人の言っていることなど、自分で必死に考えなければ何の役にも立ちませんから。自分で考えるきっかけになればいいのではないでしょうか。


<<「生きることは極端に苦しいものであるという考えはよくない」と、お釈迦さまは説かれます。極端に苦しいものであるならば、誰一人として命に執着しないだろうと説きます>>

「生きることは極端に苦しいものであるという考えはよくない」とは仏典のどこにある言葉でしょうか。
私は原始仏典でそのような言葉を見たことがないですが。
まさかとは思いますが、苦行と快楽の両極端を捨てて中道、というのを、このように解釈しているということはありませんか?さすがにそれはないとは思いますが。


<<十二因縁を徹底的に思考するって、ショーシャンクさんおっしゃってませんでした?>>

はい。そうしようと思いますし、いま実際にそうしてます。