仏教についてのひとりごと 87

たーぼーさん、こんにちは。
自らの承認欲求や自我の卑小性に気がついている人は素晴らしい人です。
ほとんどすべての人はそれに気がついていません。
大乗仏教は特に自我の形成過程を洞察すること、つまり自分を見ることがないので
自我に振り回されていることが全くわかっていないのです。

仏陀が最初の目覚めを体験してから1週間悟りの境地を楽しんだ後、十二縁起を徹底思考します。
そして、疑いがすべてなくなり、太陽が輝くような境地、究極の境地に至ります。
悟った後、なぜ、十二縁起を徹底思考しなけければいけなかったか、です。
これは古来、仏教学者の間でも謎とされてきました。

つまり坐禅をして無思考の状態になって、意識が拡がり無限と触れ合った感じになることはあることなのですが、自我の縁って起こるところを洞察できなければ、我塊はそのままなのです。
坐禅をして見性したという人が怒りん坊で癇癪もちだったり、煩悩まみれだったりすることはよくあることです。
悟った体験を担ぎまわって、それが強固な自我を形成してしまい、他を見下して、見性や悟りの前よりも人格が破たんする人だっているのです。

私にもそれが非常に疑問だったのですが、いまははっきりとわかります。
たーぼーさんは、仏教や宗教をやっている人の方が人格のできてない人が多いと思ったことはありませんか。

 

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<<私、明けの明星も自分のイメージしてたものと違うのではないかと思い始めています。>>

よく仏教の解説書に、『お釈迦様は明けの明星を見て悟った』という言葉を見ますが
どうなのでしょうか。悟った時に明けの明星が輝いていた、つまり夜明けに悟ったという描写にしか過ぎないものを、後世の禅のような解釈にしてしまったのだと考えます。


<<何故、悟った後に十二縁起を徹底思考しなければいけなかったのでしょうか?>>

無限の空間を悟っても、自我の成り立ちを洞察しない限り、我塊はそのままで、何も変化はないからです。すぐに元の木阿弥になるからです。これこそ、見性したり悟ったりしたといってる人が人格的には何も変わらずかえっておかしな人格になっている理由です。


<<特にちょっとなと思うのは、仏教でも他力系、キリスト教系の所謂信じる宗教の人は、強烈なドグマがあるイメージがあります。>>

確かに、信仰系の人は、強固な自我を形成することが多いですね。
自らの信仰により、精神ががんじがらめになっているのです。
中村元が『仏陀は信仰を説かなかった』と喝破したのはさすがです。
信仰はしょせん束縛であり、精神を一カ所に縛り付けるものだからです。
原始仏教で『信仰』と言う場合、それは『絶対なる信頼』の意味で使っています。
想像上の神仏を信仰したり、教祖を神格化して信仰したりすることは、仏教とは真逆です。
手で石を握っている場合、手の中のものを石だと信じることは仏教ではありません。
手を開いてみて、手の中のものを石だと見ることが仏教です。

 

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たーぼーさん、おはようございます。
<<自我の成り立ちなんて洞察出来るんでしょうか。>>
十二縁起こそが、自我という中心を形成して苦の集積に向かう過程を解き明かしたものです。
四諦十二縁起は仏陀の残してくれた筏です。その筏を人類は理解できずに捨ててしまったため、どこにも行き着かなくなったのです。

<<そもそも日本の仏教だって、こんなに沢山の宗派が必要なのか疑問です。>>
宗派などあってはいけないのですよ。それぞれの宗祖たちが、これが釈迦の本当の教えだと言って自分独自の教えを言い出して宗派ができたのです。
もちろん、後世に仏典が大量に作り出されたため、どの仏典が第一結集から存続してきているものを文字にしたものか、などは全く分からず、すべての仏典を歴史上の仏陀が説いたという前提で構成の宗祖たちは信じていたので、仕方ないところはありますが。
現代では、仏陀の肉声により近い仏典はどれかがはっきりしてきましたので、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを知るにはいい時代となりました。

仏陀は信仰を説かなかった』と言うと必ず大乗仏教系の人が、『仏教の基本は仏法僧の三宝を信仰することだ』と言ってきます。
しかし、歴史上の仏陀が言った『三宝に帰依せよ。帰依仏、帰依法、帰依僧。』の意味はこうです。

【ゴータマ・ブッダが苦を滅する道を知っている人として絶対の信頼を置く】
【ゴータマ・ブッダが説いた理法が苦の消滅に至るものだと絶対の信頼を置く】
【ゴータマ・ブッダが作った修行者の集団(サンガ)に仏陀が説いた理法が存していることに絶対の信頼を置く】

これが仏陀の言う仏法僧です。

大乗仏教徒が言ってくる仏法僧とは何を指すでしょうか。
その本人も全くわからないまま、仏法僧と言っているだけです。

大乗仏教徒が言う仏法僧の『仏』とは、ゴータマ・シッダッタは入りますか?久遠実成の釈尊は入りますか?阿弥陀仏は入りますか?大日如来は入りますか?観世音菩薩は入りますか?親鸞は、法然は、日蓮は、道元は入りますか?

大乗仏教徒が言う仏法僧の『法』とは何でしょうか?法華経は入りますか?大無量寿経は入りますか?南無阿弥陀仏の口称念仏は入りますか?南無妙法蓮華経のお題目は入りますか?只管打坐は入りますか?四諦の法は入りますか?

大乗仏教徒が言う仏法僧の『僧』とは何でしょうか。

 

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<<禅の身心脱落では自我の根っこが残るから、精進し続けないと悟りが維持出来ないのかなとか思いました。>>

身心脱落と言った道元は本当に自由な境地に至ったのでしょうか。
道元の逸話にこういうことがあります。
道元禅師は、弟子の玄明が北条時頼の寄進状を受け取り持ち帰ったことに対して激怒し、永平寺から追放して、玄明がいつも坐禅していた床まで切り取って、さらにその床下の土を七尺も掘ってその土を捨てた、と言います。
宋から持ち帰ったものは?と聞かれて柔軟心と答えた道元はどこに行ったのでしょう。
玄明も自分が私腹を肥やしたわけではなく、お寺のためを思ってしたことですね。
異常なまでの潔癖症で、弟子に対する慈悲の心が感じられません。
道元の遺偈【 五十四年 照第一天  打箇孛跳  觸破大千 咦  渾身無覓 活陷黄泉】も
なぜ、活陷黄泉という言葉を使ったのか、
どうしても道元が大自在の心境にあったとは思えないのです。

 

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<<何故人類は四諦十二縁起を理解出来ずに捨ててしまったのですか?>>

十二縁起、つまり縁起の法は、仏陀がこの世の人には理解できないだろうと言っているくらい難解な法です。今までの解釈のすべては間違っていますし、私の解釈が間違いという可能性も大きいのです。難解中の難解です。十二縁起を解き明かした人は今までいません。

四諦の法が、何故誰にもわからないかというと、誰も仏陀の言う『苦』がわかっていないからです。
四諦の根本は苦諦です。
現在、上座部仏教で最も有名なのはスマナサーラで、この人の本も十何冊か読みましたが
この人は、仏陀のいう『苦』が全くわかっていません。
それ以外にも、スマナサーラの本は内容が浅薄すぎて、こういう人が上座部仏教であったから
大乗仏教が興ったのだと思えるくらいです。

 

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たーぼーさん、こんばんは。
道元の遺偈は情けないですよね。
正法眼蔵の世界はどこに行ったの?っていう感じです。
がっかり感が半端ないですね。
道元正法眼蔵の世界からすれば、五十四年照第一天も違うでしょ?です。
法華転法華と言った人が、五十四年でもないし、第一天でもないでしょ、ですね。
五十四年自体が迷いだし、法華転法華の人が第一天も第二天もないのですよ。
それに、活きながら黄泉に墜ちるようではどうしようもないです。
俗人の大内義隆大石内蔵助の辞世の句のほうがよほど仏法にかなっています。


<<悟りの究極に達し、恐れることなく、無欲で、わずらいの無い人は、
  生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。>>
<<大乗の人からは外道扱いされかねないでしょうし、私の輪廻観からしても驚異的です>>

えっ?何故ですか?輪廻転生は仏陀の教えの大前提です。これを否定するものは仏陀を否定するものです。仏陀は輪廻転生から解脱することを目指し成功したのです。
私も輪廻転生は100%あると思っています。そして、輪廻転生から解脱したいと思っていますけど?輪廻転生を否定するような仏教徒がいるのですか?もし、いるとしたら、釈尊を否定する輩です。