輪廻も死後も神霊もないという者は

 たき (153.193.67.30)  
最近中村元さんの原始仏典を読んでいるのですが、ちょっとした疑問がわきました
本文にもある通り『解脱に赴かず、涅槃に赴かない』としてあえて語らないことも多かった仏陀ですが、仏典の中には地獄や前世、梵天に悪魔に竜など現在では架空とも思われていることもある事柄がたくさん出てきます。
それはどういう解釈をすれば良いのでしょうか。
梵天や悪魔などは誘惑や心象と同時に語られることから擬人化のような風にとらえていましたが、台風の中竜にくるまれ守られたとなると全くわかりません。
これらはどのように解釈していますか?

 

 

 

『無記』に関して、非常に多い勘違いは、仏陀が死後の世界や輪廻を無記として説かなかった、という誤解です。

そうではありません。

仏陀は、衆生の死後の世界も、輪廻転生もさかんに説いています。

仏陀が『無記』としたのは、解脱した人、つまり如来の死後です。

解脱した人は、輪廻からも死後の世界からも解脱しているのであれば、消え去っているのか、何もないのか、あるいは何かあるのか、という質問に対して『無記』としたのです。

解脱した人つまり如来が、死後どのようになるのかは、『測る基準が存しない』として答えませんでした。

 

 

仏陀は、解脱していない衆生に関しては、輪廻転生もあり、死後の世界もあると説いています。

神霊の存在もはっきりと説いています。

 

日本の仏教学者のほとんどが唯物論になってしまっているのは嘆かわしいことです。

原始仏典を素直に読めば、仏陀は、輪廻転生をいたるところで説いていることが分かります。

死後の世界も盛んに出てきます。

神霊もはっきりと出てきます。

例えば、パーリ涅槃経つまり大般涅槃経ですが、仏陀が亡くなる直前、仏陀を扇いでいたウパヴァーナ尊者に対し仏陀は『私の前を離れなさい』と言います。

いままでずっと仏陀の側で仕えていたウパヴァーナをなぜ離れろと言うのか、アーナンダは疑問に思って仏陀に質問しました。

仏陀は『十方の世界の神々が私に会うために大勢集まっています。そしてその比丘が世尊の前に立っているので会えないと言っている。』と答えます。

 

このように、原始仏典には神霊の存在が仏陀によってはっきりと語られています。

その記述を全部、自らの唯物論に合わせて、例え話だの比喩だの言って否定してきたのが現代の仏教です。

 

輪廻転生があるから、仏陀は輪廻からの解脱を目指したのです。

死後の世界があるから、仏陀は人々に善き世界に生まれるよう善行することを説いたのです。

 

仏教学者どころか、上座部仏教のスマナサーラでさえ、仏陀は原始仏典で死後の世界をほとんど説いていないと言っています。

どこを見てるのでしょう。

スッタニパータにも、聖者を貶した者がどんな地獄に行ったかを詳しく述べています。

どのような悪いことをしても死んだら何もなくなるのであれば、仏陀は嘘を言ったことになります。

 

仏陀は唯物論は断見と言って、迷妄の最たるものだとしました。

そして、霊魂が永遠に続くという常見も迷妄だとしました。

 

輪廻も死後の世界も解脱しない限り厳然としてあるのです。

しかし、解脱した人は、『この世もかの世もともに捨て去る』のです。

この世からも死後の世界からも解脱するのです。

解脱した人は輪廻からも解脱します。『再び生まれることがない』のです。

 

 

仏陀の覚りの根本は三明です。

宿住智は、自らの輪廻転生をありありと見たのです。

天眼智は、衆生たちの死後行く世界をありありと見たのです。

 

つまり、輪廻転生と死後の世界は仏陀の理法にとって根本であるのです。

 

 

 

 たき (153.193.67.30)  
仏教への認識の前提を間違えてしまっていたようです。ありがとうございました!
 
 

これは、現代の日本の仏教だけでなく、仏教なるものが、唯物的な解釈をされ続けてきたので仕方ないことだと思います。

仏教をただの倫理、ただの道徳、ただの哲学にしたい人たちが、仏陀があれほどいたるところで説いた、輪廻転生や死後の世界のことを、ただの比喩だとか例えだとか言って否定してきたのです。

中村元などの仏教学者もそうしてきたのです。

情けないことです。