自帰依 法帰依

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、こんばんは。
「五薀を仮合させる潜在的形成力=行=業力があり、五薀を集めている」とショーシャンクさんの言われた、同じ意味のことを佐々木閑先生もおっしゃっていて、釈迦の一番言いたかったことはここだ、ここが核心だと、すっと腑に落ちるというか、収まるんですが、実は、ぼくはここがよく分かっていないのです。
「渇愛から来る潜在形成力はなくならず、必ず新しい五薀を集めます」というところも、なおさら腑に落ちて強く心に伝わって来るのですが、ぼんやりとやはり分からなかったりします。
強く執着する心が強く掴んで離さないものが「業」。
釈迦の「自灯明」を考えて、「明」とするような「自」があるのか。
そもそも、「自」とは何なのか。「自」とは「業」なのか。
もどかしいような思考が、半分、分かったような、分からないような。
仏教の核心、秘された真理は、黒板に書いて分かるようなものでもないのでしょうが。
例えば、浄土真宗派(大乗)が「空」を説くならば、「自灯明」の「自」も「灯」も「明」も無となってしまい、釈迦との線が切れてしまっています。矛盾です。
釈迦の教えを突き詰めて行けば行くほど、「自」へと繋がって行くような気がします。
少し前の項で「見性」(けんしょう)のことを書かれていましたが、見性も自であり、見性について興味深い論文を読んで面白かったので、近いうち、項を改めて、見性についてのお話を投稿させていただきます。
結局、自分でも何を言いたいのか論旨のはっきりしない文を書いてしまいましたがお許しください。

 

 

高原さん、こんにちは。

 

佐々木閑は、『輪廻を現代の私たちにそのまま認めろというのはムチャな話で、自分は輪廻を信じていない』とはっきり言っています。

無明、渇愛、業力が五蘊を集めさせるのであれば、渇愛が滅していない限り、再び五蘊を集めてしまうのは明らかです。

それなのに、現代の仏教学者や仏教者は輪廻も死後の世界も否定します。

ここに、いまの仏教なるものの大きな問題があります。

まるで仏陀の真意が伝わっていないのです。

仏陀の覚りの内容は三明です。

宿住智によって、自分の過去生、輪廻転生をありありと見ました。

天眼智によって、世界の生きとし生けるものの自らの業によってその業にふさわしい世界に赴く様をありありと見ました。

これによって四諦十二縁起の法を悟ったのです。四諦の法により煩悩の滅に至りました。漏尽智です。解脱したのです。

そして、解脱の楽しみを味わってから7日後に十二縁起を順逆観じていきます。

 

仏陀の理法は、輪廻転生抜きには語れません。

凡庸な仏教学者たちがこぞって輪廻転生を否定するのは、kammaが今現在も瞬間瞬間世界を形作りつつあることをありありと見ていないからです。

いまここで、怖ろしいほどの力で、kammaは、すべてを作りつつあるのです。

それが全く見えてないので、仏教は、老人の玩弄物になったままぐったりと死んでいるのです。

 

目の前に展開する、怖ろしいまでのkammaの力。

否が応でも、その圧倒的力が、私たちのこの肉体や環境という『現実』を展開させています。

これを少しでも実感したら、この力は、この五蘊がバラバラになった後でも、なくならないのはわかるはずです。

今の仏教なるものには、そのような活き活きとした実感が全く失われています。

だから、仏教は現実に対し、何も役に立たないものになっています。

暇な老人たちが、仏教学者の本を読んで、読んだ本の数やその知識を自慢するだけのおもちゃになっているのです。

その人の精神に何の役にも立っていないばかりか、かえって自我を強固にしています。

 

仏陀が言った『激流』とは何か、これさえ、仏教学者はありありと実感していません。

 

それでは、仏陀が言った『自燈明 法燈明』の『自』とは何でしょうか。

dipaは、『燈明』とも『島』とも『洲』と訳されます。

 

仏陀は四念処を説いた後、『このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる』と言います。

 

仏陀はよく、『整えられた自己』と言う言葉を使います。

四念処は、身・受・心・法において、非我であることを観じるものです。

形成されたものを『私、私のもの、私の本体、ではない』と観じていくことです。

 

現在自己同化している『形成されたもの』をすべて捨離していって、その後に残るものこそ、『整えられた自己』です。

非我であるところのもの、そここそ、『自』であり、『法』であるのです。

ゆえに、『自帰依 法帰依』と言うのです。