高原さん、こんにちは。
佐々木閑は、『輪廻を現代の私たちにそのまま認めろというのはムチャな話で、自分は輪廻を信じていない』とはっきり言っています。
無明、渇愛、業力が五蘊を集めさせるのであれば、渇愛が滅していない限り、再び五蘊を集めてしまうのは明らかです。
それなのに、現代の仏教学者や仏教者は輪廻も死後の世界も否定します。
ここに、いまの仏教なるものの大きな問題があります。
まるで仏陀の真意が伝わっていないのです。
仏陀の覚りの内容は三明です。
宿住智によって、自分の過去生、輪廻転生をありありと見ました。
天眼智によって、世界の生きとし生けるものの自らの業によってその業にふさわしい世界に赴く様をありありと見ました。
これによって四諦十二縁起の法を悟ったのです。四諦の法により煩悩の滅に至りました。漏尽智です。解脱したのです。
そして、解脱の楽しみを味わってから7日後に十二縁起を順逆観じていきます。
仏陀の理法は、輪廻転生抜きには語れません。
凡庸な仏教学者たちがこぞって輪廻転生を否定するのは、kammaが今現在も瞬間瞬間世界を形作りつつあることをありありと見ていないからです。
いまここで、怖ろしいほどの力で、kammaは、すべてを作りつつあるのです。
それが全く見えてないので、仏教は、老人の玩弄物になったままぐったりと死んでいるのです。
目の前に展開する、怖ろしいまでのkammaの力。
否が応でも、その圧倒的力が、私たちのこの肉体や環境という『現実』を展開させています。
これを少しでも実感したら、この力は、この五蘊がバラバラになった後でも、なくならないのはわかるはずです。
今の仏教なるものには、そのような活き活きとした実感が全く失われています。
だから、仏教は現実に対し、何も役に立たないものになっています。
暇な老人たちが、仏教学者の本を読んで、読んだ本の数やその知識を自慢するだけのおもちゃになっているのです。
その人の精神に何の役にも立っていないばかりか、かえって自我を強固にしています。
仏陀が言った『激流』とは何か、これさえ、仏教学者はありありと実感していません。
それでは、仏陀が言った『自燈明 法燈明』の『自』とは何でしょうか。
dipaは、『燈明』とも『島』とも『洲』と訳されます。
仏陀は四念処を説いた後、『このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる』と言います。
仏陀はよく、『整えられた自己』と言う言葉を使います。
四念処は、身・受・心・法において、非我であることを観じるものです。
形成されたものを『私、私のもの、私の本体、ではない』と観じていくことです。
現在自己同化している『形成されたもの』をすべて捨離していって、その後に残るものこそ、『整えられた自己』です。
非我であるところのもの、そここそ、『自』であり、『法』であるのです。
ゆえに、『自帰依 法帰依』と言うのです。