『料なり』とは

浄土真宗の寺院のホームページに載っていた仏教解説の一部を転載しました。

この寺院の住職が講義したレジュメのようです。

とてもよくまとめられたいいレジュメだと思います。

 

さて、ここで大きな疑問があります。

 

浄土真宗の宗祖親鸞は龍樹を大変尊敬していました。

歴史上の仏陀は、自己や世界に実体があるか実体がないかという問いには無記、つまり、答えない、としました。

そのような形而上学的なことは涅槃に資することがないからです。

ただ、頭の中の見解を増やすだけだからです。解脱から遠ざかるからです。

しかし、龍樹は、自己や世界、そして仏、如来にも実体がないとしました。

これは世界中でも希有な考えです。

キリスト教にしてもイスラム教にしても、自分が信仰している神に実体がない、などと思いもしないでしょう。

龍樹の信奉者は、イスラム教徒に『あなたが信仰している神には実体がない』と言ってみたらわかります。どんな反応をするか。

 

親鸞は龍樹の『仏、如来にも実体がない』という考えを引き継いでいるので

『弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり』と言います。

阿弥陀仏も方便なのだ、ということです。

 

 

親鸞は死ぬまでずっと形而上的な思索をし続けた人ですから、こういう結論に達したのでしょうけど、熱心な阿弥陀仏の信者にとってそれが受け入れられるものでしょうか。

 

浄土真宗の信者の人は、親鸞が言った『弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり』をどう捉えているのでしょうか。

本当に、自分が信仰する阿弥陀仏には実体がないと思って信仰しているのでしょうか。

 

 

この言葉に違和感を覚える理由はこうです。

 

龍樹は、縁起の理法を龍樹独自に拡大解釈して、縁起であるから無自性であり、無自性であるから空であり、実体がない、としました。

そして、仏や如来にも実体がないとしました。

 

それはそれで一つの哲学的な結論なのでそう思うのはいいのですが、それが神仏に帰依するという信仰形態であるとき、それで本当にいいのだろうかと思います。

 

歴史上の仏陀の教えは、自分以外の『他』を信仰する、頼るということをしませんでした。

神仏を信仰するという形態は、キリスト教でもイスラム教でもそうですが、それらの信者は、『神は実在』『神は実体』としてあることに少しの疑いもありません。

人間は実体がないものを信じたり信仰したりすることはしないからです。

 

阿弥陀仏を信仰する浄土教において、『弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり』つまり、阿弥陀仏も方便で実体がないというのはどうなんでしょう。

それを信者を導く宗祖が言ってしまうのはどうなんでしょうか。

 

喩えて言うなら、医療に『プラシーボ(プラセボ)』という言葉があります。

砂糖を固めただけの錠剤を、医者が『これは抜群に効く薬だ』と言って飲ますと、その効果が本当に現われるという現象のことを言います。

これは極めて一般的に認められた効果で、そのため臨床実験では必ず、偽薬を飲ませるグループと本物の薬を飲ませるグループとを比較します。

 

医者が、その錠剤を薬としての『実体がない』ただの砂糖だと患者に言ってしまったらその患者はその錠剤を信じるでしょうか。『この錠剤は方便なんだよ』と言う医者は名医でしょうか。

 

わたしは神が実在であるとか実在でないとか言っているのではありません。

そういうことは、仏陀は『無記』としました。

 

しかし、浄土教のように阿弥陀仏を熱烈に信仰する形態において、その信仰の対象を『実体がない』『方便だ』と言ってしまうのは、本当に無知な大衆を救おうとする熱意があったのかどうか疑問になります。