仏典によく出てくる神に梵天があります。
梵天とは、Brahma で、宇宙の根源、存在の根源たる根本原理のブラフマンが擬人化された、ヴェーダ後期を代表する男性の最高神です。最初期のウパニシャッドの時代には、すでに万物の創造主とされていました。
それが仏陀の死後徐々に整えられていった『仏教なるもの』では、梵天は色界初禅天(色界最下層)に住むとされていきました。
仏陀の生きていた時代には(あるいはその前や後にも)インドでは最高神とされていたのですから、仏教の中での凋落ぶりが凄まじいです。
ここにも、後世の仏教なるものが仏陀の真意を曲げていった経緯を見ることができます。
梵天が登場するシーンでは、梵天勧請が最も有名です。
相応部経典でも古層に属する『詩句をともなった集』にありますから、はるか後世に付け加えられた脚色ではありません。
仏陀は悟りを開きましたが、『執着にふけり執着を楽しんでいる人たちにこの真理を説いても理解できないだろう』と考え、説法しないほうへ心が傾いていきました。
梵天はそれを見て『この世は滅びる』と考え、仏陀の前に現われます。
『貴い方、尊師は教えをお説きください。この世には汚れが少ない人がいます。かれらは教えを聞かなければ退歩しますが、聞けば真理を悟るものとなるでしょう』
世界の主である梵天はこのように述べ、次のことを説いた。
『願わくはこの不死の門を開け。
無垢なる者の覚った法を聞け。
たとえば、山の頂にある岩の上に立っている人があまねく四方の人々を見下すように、あらゆる方向を見る眼ある方は、真理の高殿に上って、憂いに悩まされている人々をみそなわせたまえ。』
そのとき、尊師は、梵天の勧請を知り、生きとし生けるものへのあわれみによって、さとった人の眼によって世の中を観察された。
尊師はさとった人の眼をもって世の中をみそなわして、世の中には、汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、鋭敏な者ども、愚鈍な者ども、美しい者、醜い者、教えやすい者、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。
見終わってから、世界の主である梵天に詩句をもって呼びかけられた。
『耳ある者どもに甘露の門は開かれた。
信仰を捨てよ。
梵天よ、人々を害するであろうかと思って、
わたしはいみじくも絶妙なる真理を人々に説かなかったのだ。』
そこで、世界の主である梵天は、『わたしは世尊が教えを説かれる為の機会をつくることができた』と考えて、姿を消した。
さて、この記述からでもいろいろなことがわかります。
古層に属する仏典には、梵天は『世界の主である』と書かれています。
仏教の初期段階では、インド全体の認識と同じく、梵天は最高神、根源、究極の存在と考えられていたわけです。
そして、覚った眼で、俯瞰するように世界の人々を見るようにアドバイスします。
天眼智で見るように言うのです。
その結果、仏陀が悟った真理が理解できる人がこの世にはいることを見たのです。
仏陀が聞いたのは、心の根源からの声だったと思います。
しかし、Brahma はバラモン教で最高神であり、Brahmanは、バラモン教で宇宙の根源とされている根本原理です。
バラモンというのは、ブラフマンの親戚という意味です。
仏教は後世になればなるほど、バラモン教の色のついたものを徹底的に貶め排斥していくようになります。
スッタニパータでは、仏陀を『バラモン』とか『ヴェーダの達人』とか呼んでいてバラモン教やジャイナ教の用語は肯定的に使われていますが、後世になれば徹底排除へと向かいます。
これにより、インドの共通認識であった、Brahmaが最高神、究極の存在というところから、色界最下層へと貶められていくのです。