マニカナに『「これは仏教の道にいく、これは仏教の道にはいかない」と知る能力』とありました。
『だから、「大乗仏教は、ブッダの言葉とは似ても似つかないから正しく仏教を伝えていない」という意見をいう人がいるならば、その意見それ自体が、処非処智力によって判定されるのです。この人は、仏教を知らないみたいだ、と。このように判定できる能力は、ブッダから教えられたもので、すぐれた註釈者ならブッダに近い能力までもっているものです。』とのことです。
さて、仏陀の死後、『仏教なるもの』が形成されてきました。
仏陀は、仏教なるものの開祖になろうという気はありませんでした。
あくまで、過去の覚者たちが歩んだ古城に至る古道を見つけただけだ、と言いました。
その古道とは、苦の消滅に至る八正道です。
仏陀の死の直後、第一結集が行なわれ、仏陀の生前の教えを確認し合いました。
その100年後根本分裂が起き、仏陀滅度の500年後大乗仏教が起きます。
それから現代に至るまで、実に様々な人たちが、『自分なりの言い方』で教えを説いてきました。
その全体を『仏教』と呼んでいます。
それでは、様々な『仏教なるもの』の共通点は何でしょうか。
例えば、キリスト教ではどのように宗派があったとしても『聖書』という共通点は揺らぎません。イエス・キリストを救世主とすることも共通点です。
『仏教なるもの』に共通点はあるでしょうか。
根本の仏法僧三宝にしても、仏は宗派によって釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、大日如来とバラバラです。
法も法華経、華厳経、涅槃経、阿弥陀経、無量寿経、大日経、般若経、あるいはスッタニパータとバラバラです。
僧はサンガのことですが、そもそも日本にサンガが存在したことは一度もありません。
よくいえば、非常に寛容に、その人が仏教と言えば仏教となった、といったところです。
その寛容や鷹揚は、異端排斥が生まれにくいといういい点と、それでは歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかがわからなくなっているという悪い点があります。
例えば、仏陀は火を使った儀式や占いの類いは禁止しました。
しかし、密教では、護摩(バラモン教のhomaホーマです)を焚き、占いをします。
それでも、仏教とされています。
このような中において、『これは仏教だ』とか『これは仏教でない』と異端審問することに何か意味があるでしょうか。
確かにそれぞれの人がそれぞれの立場で、『これが仏陀の真意だ』と考え、それを表わしてきました。
そして、私も、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかという視点から、仏陀の真意を探求しています。
おそらく、『これは仏教の道だ』と書かれた判断は、龍樹に依っていると思います。
つまり、実体化するかしないか、という判断基準です。
自己や世界を実体化してしまったら『仏教ではない』『外道だ』という基準です。
しかし、そもそも、歴史上の仏陀は、自己や世界に実体があるとかないとか、そのようなことは『無記』としました。説かなかったのです。そのような論議自体を禁止しました。
しかし、部派も大乗も、そういう論議ばかりに耽るようになりました。
自己や世界を実体化しないから仏教、実体化したら外道、というのは、仏陀の真意ではありません。
仏陀の真意は、そのようなことは涅槃に赴かないから『無記』としたのです。