仏教史が覆る

高原 (126.42.33.248)    

ショーシャンクさん、こんにちは。
 
グレゴリーショペンなる方の名は聞いたのは初めてで、どういう人物かとも分かりませんが、グレゴリーショペンの記事を見ていて「大乗仏教は5~6世紀の中国で体系化され、インドに逆輸入された」という文があって、これは衝撃的な発言で、これまでのインド由来の仏教の常識を叩き壊すものです。
 
ぼくは以前から法華経が中国人の著書であるような感じがあって、しかし法華経のサンスクリット語判がある限り、それもないかと思ってきましたが、逆輸入されたとすればそれも説明出来ます。
司馬遼太郎が「華厳経は中国の砂漠のオアシス都市で書かれた」という指摘も合致します。 スッパニパータ、ダンマパダ、阿含経が、韻を踏んだ詩的、簡素、モノクローム的、哲学的、であるに対して、大乗仏教の華厳経、法華経、浄土経は、情緒的、情熱的、教訓的、道徳的、色彩的、であり、とても同じ地域の同じ民族の書いたものととは思えませんでした。 中国の5~6世紀と言えば、隋、唐の時代で、中国歴史史上、最も文化が爛熟した時代で、大乗仏教を作り出す土壌は確かに整っていました。

 

 

 

高原さん、こんばんは。

 

グレゴリー・ショペンは、考古学的な手法で、碑文を徹底的に読み解いていった学者です。

仏教界に衝撃をもたらせた人物です。

私も、この人の読み解いた仏教史は正しいと思っています。

 

大乗仏教の国日本で生まれ育った私たちは、漠然と大乗仏教が本当の仏教で小乗仏教は低い教えだと感じています。

少し仏教に詳しい人なら、五時教判を持ち出して説明するでしょう。

釈尊は、悟った直後に悟りの境地そのままの華厳経を説いた。

しかし、あまりにも高度なので誰にも理解できなかった。

そこで釈尊は、道徳的でわかりやすく低い教えである阿含経を説いた。

少しレベルが上がったところで、大乗の維摩経などを説き始めた。

だんだんレベルを上げていって、般若経を説き、そして最高の教えたる法華経を説いた。そして入滅する夜に涅槃経を説いた。

この天台の五時教判は物語的にも面白く、理解しやすいので日本仏教の定説になっていきました。

 

しかし、そのような仏教知識を白紙にして、最古層の仏典から紐解いていくと全く違う景色となります。

仏陀の直弟子たちは、仏陀の教えがねじ曲がっていかないように、仏陀の死後直後、500人の弟子たちで教えを確認し合いました。それが第一結集です。

これで仏陀の教えは確定したのです。

そして確定した教えをサンガで大事に大事に守っていきました。

第一結集に依らない経典を勝手に作り上げるなど、まさしく悪魔の所業でした。

ですから、グレゴリー・ショペンが読み解いたように、『中国で大乗がインテリ受けしていた頃、インドではまるでダメ。大乗は嘲笑・あざけり・侮蔑の対象であり、大乗の人々は小乗を罵倒しつつ悪戦苦闘する戦闘的な少数派だった。』というのはまさしくその通りだったと思います。

ただ、大乗仏典が中国で作られたわけではありません。

インドのサンガの中で、ひそかに作られて行ったのでしょう。

そして、見つかった僧侶はサンガから追い出されたことでしょう。

 

先に中国で大乗仏教が流行したのには訳があります。

経典として紙に文字を書き始めたのは大乗仏典が先で、それを見て焦った部派が原始仏典を書き始めたという説もあるくらいですから、たぶん同時期に経典として作られて行ったのでしょう。そして、中国では、仏教がどんどんインドから入ってきましたが、インド発祥の経典はすべて釈尊が説いた教えとされました。

また、大乗仏典はサンスクリット語という極めて優れた文字を使います。それに加え、いたるところで小乗の悪口が書かれ、小乗を低い教え、大乗をすぐれた教えと強調しています。

すべてを釈尊の言った言行録としてみるならば、大乗仏典がもてはやされたのは当然です。

 

いま、玄奘三蔵が行ったインドのナーランダ大学はその当時、大乗仏典と原始仏典どちらが主流であったのかを調べていますが、まだわかりません。

玄奘三蔵は般若経を唐に持ち帰ったとされていますから、大乗仏教全盛の中国では、やはり大乗の経典を持ち帰ることが主眼になったのでしょう。

しかし、実際は、その当時のナーランダ大学では、どちらが主流であったのか、それがわかれば、グレゴリー・ショペンの説が正しいかどうかもわかる気がします。