大乗仏教側の主張について

仏教は、古くから、大乗仏教側からの『小乗仏教蔑視』と部派仏教からの『大乗非仏説』という構図で対立してきました。

 

近年は、文献学の発展により、どの仏典がより古層かということが明らかになってきており、原始仏典に基づく派の『大乗非仏説』が大きく勢力を伸ばしています。

いまのままでは、大乗非仏説の大波に仏教界は吞まれてしまう勢いです。

これに対し、大乗仏教側は、文献学を貶したり、中村元を個人攻撃したりするばかりです。

大乗仏教側からの反論という形で、『大乗非仏説をすべて論破した』というようなYouTubeもありましたので、アップします。

これのどこがおかしいでしょうか。


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まず、この人は、原始仏典(パーリ仏典)が仏陀滅後300年から400年後に書かれたもの、大乗仏典は500年後くらいだからあまり変わらない、と主張します。

特に、パーリ語の写本で現存しているものは18世紀以降のものであるとします。

これらをもとに、大乗仏典が創作である証拠はなく、原始仏典も大乗仏教も、仏陀が在世中に説かれたものをその記憶と伝承により後世に文字に書き留めた可能性があり、その可能性は同じだけある、と主張します。

『ある文章が記憶ではなく創作で書かれた証拠は文献学では原理的に存在しない』とします。

 

しかしながら、ある文章が、いつの時代に書かれたものか、という特定は実はかなりの部分でできます。

例えば、『昔々あるところに、お爺さんとお婆さんがいました。ある日、お爺さんは山に柴刈りに、お婆さんは川に洗濯に行きました。お婆さんが川で洗濯物を石鹸で洗っていたところ、大きな桃がどんぶりこどんぶりこと流れてきました。』という文章があったとします。

この文章はいつの時代に書かれたものでしょうか。

奈良時代より前でしょうか。平安時代でしょうか。鎌倉時代、室町時代、江戸時代、明治、大正、昭和、でしょうか。

 

『ガソリン車でドライブした』という文章は、絶対にガソリン車の発明以降の文章であることが確実であるように、例えば、国王のように豪勢な暮らしをする富豪商人が喩えで出てきたらそのような豪商が現れた紀元後の創作とわかるのです。

 

 

翻訳や現存する写本が新しいか古いかではなく、その原文そのものがいつのものか、というのが重要です。

仏教でいえば、第一結集で仏陀の教えか否かが判別されたのですから、第一結集によるものかどうか、で仏説非仏説が分かれるのです。

 

ですから、大乗仏教側が反論するのであれば、『大乗仏教は何故興ったのか?』ということを真正面から解き明かしていかなくていけないのです。

しかし、結局、文献学にケチをつけるだけで、『原始仏典も古いとは限らない。大乗仏典も新しいとは限らない。』というような曖昧模糊とした結論でお茶を濁すことで終わるのが常です。

 

古代インドでは口伝が普通であり、文字に書き写した時代よりも、第一結集に基づいた口伝であるかどうか、です。

第一結集に基づかないものは、仏陀の肉声ではないのです。

仏陀の肉声でないのであれば、なぜ、500年も経っていきなり現れたのか、その最大の謎を説き明かす必要があります。

 

最後の主張の、『テーラワーダ仏教シャム派はカースト制に基づいたもので低カーストの人が出家できない、お釈迦さんに反する非仏教だ。』というのは、スマナサーラへの批判でしょう。

これはその通りかもしれません。

これは、日本テーラワーダ協会は正面から答えなければいけないでしょうね。

 

 

とにかく、大乗仏教側から、大乗仏教はなぜ興ったのかを解き明かす人が出てこない限り、大乗非仏説の大波にすべて呑み込まれることは避けられません。

文献学や中村元を貶すだけの情けない言説に終始せず、真正面から説き明かせる人が出てこないものか、と思っています。