dukkha(苦)の語源

マニカナに貼られていたサイトに、dukkhaの語源について書かれたものがあり、私の疑念が晴れましたので、ここに触れます。

 

私は著書『仏陀の真意』にこう書きました。

 

部派仏教になってからは、「dukkhaとは苦しみという意味ではない。空しいとか無価値という意味である」というような解釈になっていきます。

しかし、仏陀のいうdukkhaとは、苦、苦しみです。激痛といってもいいくらいの苦しみです。

すべての人には矢があたっているのです。矢に貫かれているのです。それも、毒矢です。

苦しみ以外の何物でもありません。空しいとか無価値というものではありません。

 

 

仏陀とその直弟子の時代、つまり根本分裂が起きる前の仏教を原始仏教と私は言います。

根本分裂以後の部派仏教(上座部仏教など)は、仏陀の真意からかけ離れていったので

大乗仏教が部派仏教のアンチテーゼとして興ったと考えています。

 

なぜ、部派仏教は、dukkhaを『苦、苦しみ』ではなく、『空しい、無価値』と解釈したのでしょうか?

 

上座部仏教のスマナサ-ラはdukkhaにつき、こう言っています。

『dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。分析しますと、まず「du」という語は、場合によって意味が変わってきますが、この場合「無価値・たいしたことがない」という意味で使われます。分かりやすく言いますと、日本語に「石」という語があります。この「石」の前に「小」という語をつけると、「小石」となります。小石というと、大きな石でもなく、きれいな石でもなく、どちらかといえば小さい石とか、たいしたことのない石、が思い浮かぶでしょう。「小」という漢字には「小さい」という意味もありますが、ほかにも「たいしたことがない・あまり価値がない・重要さの程度が少ない」いう意味もあるのです。
また「川」という語の場合なら、その前に「小」をつけると「小川」となり、意味は「たいした川ではない」となります。
このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。
「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。』

 

つまり、dukkhaの語源から、duとkhaに分けて、『大したことがない』『空っぽ』という意味としたのです。

 

『仏道修行のゼロポイント』というサイトにこうあります。

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仏教について興味があり、特に原始仏教あるいはテーラワーダ仏教やそのパーリ経典について少しでも勉強したことのある人なら、常識として知っているだろう重要な言葉がある。

それはスカ(Sukha)とドゥッカ(Dukkha)というパーリ語の単語だ。これはサンスクリット語だと若干綴りや発音が違ってくるが、ここでは煩雑になるので双方共にスカとドゥッカで統一したい。

ドゥッカは苦を意味する。それは生老病死苦の苦であり、四聖諦の苦でもあり、四苦八苦の苦であり、輪廻する生存の苦でもある。それはあらゆる意味で仏教の根底にあるキー・コンセプトであり、ブッダの教えとは、正にいかにしてこのドゥッカから解放されるか、という事に尽きるだろう。

スカはドゥッカの反対語で幸福や安楽を意味する。スッタニパータのメッタ・スッタ(慈経)にある、「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ」などの幸福、安楽がそれであるし、「ものごとを知って実践しつつ真理を了解した人は安楽を得る」の安楽がそれである。

同じスッタニパータには、
「他の人々が『安楽(スカ)』であると称するものを、諸々の聖者は『苦悩(ドゥッカ)』であると言う。他の人々が『苦悩』であると称するものを、諸々の聖者は『安楽』であると知る。」(以上中村元訳)
という表現もある。

このスカと言う言葉は、後の大乗的文脈においては極楽(スカ・ヴァーティ)を意味するようになる。

そして実は、このスカとドゥッカと言う言葉は、語源的に見るとラタ車の車輪と密接に関わっていた。

モニエル・ウィリアムス(Monier-Williams,1819–1899)のサンスクリット語辞典によれば、スカの本来の語感は「良い軸穴を持つ(車輪)」に起源する。構造的には、Suが良い、完全な、を意味し、Khaが穴、あるいは空いたスペースを意味する。

 

この事実にパーリ語辞典などの内容を合わせて解説すると、

「良く完全に作られた軸穴を持った車輪と言う原義が、そのような車輪のスムースかつ円満な回転を含意し、更にそのようなスムースに回転する車輪を付けたラタ車の乗り心地の良さ、その安楽さ、心地よさを意味するようになり、更にそれが安楽や幸福、そして満足を意味する一般名詞へと転じていった」

という事の様だ。

ドゥッカの場合はこの反対語で、Duhは悪しく、不完全な、という意味を持つ。

これもまた、悪しく不完全に作られた軸穴を持った車輪、と言う原義から派生して、その様な車輪のガタガタとした不具合、不完全な回転、更にその不完全な車輪を付けたラタ車の不快な、心地の悪い、苦痛に満ちた不満足な乗り心地を意味するようになり、それが転じて、苦や苦痛、そして不満足からくる苦悩を表す一般名詞へと転じていったと考えられる。

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つまり、khaとは車輪の軸穴のことで、良い軸穴を持った車は乗り心地が良く、良い軸穴を表すsukhaが『楽』という一般語に、悪い軸穴を表すdukkhaが『苦』という一般語になっていったということです。

 

それを部派仏教では、『dukkhaとは、苦や苦しみという意味ではない。空しいとか無価値という意味』と解釈してしまったのです。

全くの間違いであることがわかるでしょう。

これは、仏陀の真意とはかけ離れています。

 

歴史上の仏陀が求めたのは、苦と苦の滅でした。

仏陀の理法の最も根本的なものがdukkha です。

dukkha は、苦、苦しみ以外の何物でもありません。

仏教はここに至って仏陀の真意からかけ離れてしまったのです。

 

スマナサーラが言っているように、dukkha は、duつまり、「大したことない」、khaつまり「空っぽ」ということであれば、

dukkha の反対語、対照語のsukha は、「大したことある空っぽ」「良い空っぽ」というまるで意味をなさない言葉になってしまいます。

 

仏陀の理法で最も根本的に重要なdukkha を、このように全く間違った解釈しているのですから、仏陀の真意はねじまがっていったという、私が今まで主張してきたことの正しさが証明されたと思っています。