niralaさん、はじめまして。
コメントいただきありがとうございます。
仏陀の理法の中でも、十二縁起は極めて難解です。
以前にどの仏教書を読んでも、十二縁起について私が納得のいく解説はなされていませんでした。
そこで私は、十二縁起の本当の意味についてどうしても知りたいと思い、原始仏典を調べていきました。
その結果わかったことは、仏陀が説く『縁起』とは十二縁起のことです。
つまり、苦の縁って起こる原因のことです。
これに例外はありません。
はるか後世に龍樹が出てきて、『縁起』を一般的な『関係性』と捉えてしまい、『すべての存在は縁起すなわち関係性で成り立っているから自性がない、空である』という理論を展開して、縁起と空が仏教の根本教義となっていきました。
ところが、仏陀が言う『縁起』とは、次の『縁起の公式』に当てはまったもののみを言います。
縁起の公式とは、
Aがあれば Bがあり
Aが生じるが故に Bが生じる
Aがなければ Bはなく
Aが滅するが故に Bが滅する
ということです。
このすべてに当てはまらなければ縁起の関係ではありません。
仏陀は、この縁起の公式によって、苦の根本原因を見つけようと思いました。
苦の根本原因を見つけてそれを滅すれば苦が滅すると考えたのです。
つまり、縁起の公式とは、
Aがあれば 苦があり
Aが生じるが故に 苦が生じる
Aがなければ 苦はなく
Aが滅するが故に 苦が滅する
このAを見つけるためのものでした。
苦の根本原因を見つけて、それを滅することによって苦を滅したのです。
私が、あらゆる仏教書の十二縁起の解説に納得しなかったのは、
まずは、
Aがあれば Bがあり
Aが生じるが故に Bが生じる
Aがなければ Bはなく
Aが滅するが故に Bが滅する
という縁起の公式を無視している解説ばかりだからです。
そして、仏典を無視していて勝手に、十二個の単語つまり、無明や行や識や名色や六入や触や受や愛や取や有や生や老死という単語を訳しただけになっているものばかりだったからです。
例えば、縁起とは相依性であると解説された本が極めて多いです。
しかし、仏典には、十二縁起のうち、相依性は、識と名色の間にだけあると書かれています。
それ以外は相依性の関係ではないのです。
その意味を解き明かした本はひとつもありませんでした。
原始仏典を忠実に辿っていけばいくほど、十二縁起はますます迷路のように難解なものに思えてきました。
仏教学者が解説する十二縁起は、全く解説にもなっていないものに思えてなりませんでした。
例えば、niralaさんが挙げられていた中村元の解説を見てみます。
『時に世尊はその夜の初更において、縁起〔の理法〕を順逆の順序に従って良く考えられた。無明によって生活作用があり、生活作用によって識別(認識)作用があり、識別(認識)作用によって名称と形態がある、名称と形態によって六つの感覚機能があり、~ このようにして、苦のわだかまりがすべて生起する。しかし、貪欲をなくすことによって無明を“残りなく止滅”すれば、生活作用も死滅する。~このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて止滅する。』
まず、生活作用とはどういう意味でしょうか。
『無明によって生活作用がある』とはどういう意味でしょうか。
『生活作用によって識別作用がある』とはどういうことでしょうか。
『識別作用によって名称と形態がある』というのは、意味をこじつければわからないではないです。つまり、識別作用によって名称と形態を認識するという意味とすることはできるかもしれません。
しかし、それでは、『名称と形態によって六つの感覚機能がある』とは何でしょうか。
識別するには、前提として六つの感覚機能がなければ対象を認識できませんし、それを識別することなどできません。
六つの感覚機能は識別作用の前に来なければいけないはずです。
あまりにもおかしい説明だと思いませんか?
niralaさんのおっしゃっている意味はよく分かります。
十二縁起の各項目の、無明、行、識、名色、六入、触を遡及しながら全部または、どれか一つでも止滅させれば苦の集積の破壊にはなるのではないかということですね。
禅定により、それは可能ではないかとは思います。
十二縁起のどれか一つでも止滅させればそれから先の苦の集積はすべて滅する構造になっているからです。
このような考え方により、仏教は、禅定至上主義になっていきました。
しかし、例えば、玉城康四郎博士の『ダンマの顕現』などを読んでいると、禅定により見性や悟りの体験が度々起きたとしても数日または数十日で元の木阿弥になってしまったということです。
私は、本来の仏陀の瞑想は、無思考型ではなく、理法を洞察すること、理法を繰り返し観じることによって無明を残りなく消滅させたのだと考えています。
仏陀は出家してすぐ、アーラーラ・カーラーマに師事して無所有処定を習得します。
次に、ウッダカ・ラーマプッタに師事して非想非非想処定を習得します。
しかし、どちらの禅定も、『この法は、厭離のためにならない。滅尽、正しい覚り、涅槃には行き着かない。』と考え、離れ去ります。
仏陀は結果的には、四諦十二縁起を観じることによって涅槃に達します。
私は、仏陀の教えの本質は、仏陀の理法を観じることによって智慧を生じさせ無明を滅尽することだと確信しています。
仏陀の理法の中核が、四諦十二縁起、四念処です。
十二縁起の理法を観じるには、十二縁起の正しい理解がどうしても必要となります。
私は、十二縁起とは、自我の成り立ちを洞察し、『私という中心』が出来上がっていく様を観じ、苦の集積に向かっている有り様を観ること、だと思っています。